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川と人をつなぐ情報誌 いながわ

 
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いながわ民話広場 椋橋総社の鯉塚と治田寺の鯉橋 いながわ民話広場 椋橋総社の鯉塚と治田寺の鯉橋  はるか昔のこと。素戔鳴尊(すさのおのみこと)が2匹の大きな鯉に乗って、高天原(たかまがはら)から降りてきました。神崎川を経て、現在の豊中市(とよなかし)庄内・庄本(しょうない・しょうもと)に当たる地へとたどり着き、民に農業を教えましたが、乗ってきた鯉は力尽きて死んでしまいました。この死をいたんで鯉たちを埋めたのが、椋橋総社(くらはしそうしゃ) の拝殿前にある「鯉塚(こいづか)」だと言われています。
 それから時が経ち、天平(てんぴょう) の時代。日本全国を旅していた行基(ぎょうき) というお坊さんは、自ら刻んだ仏様を本尊に、尼崎の戸ノ内(とのうち)に治田寺治田寺(じでんじ)をたてました。
あるとき、このお寺へお経をあげに行くため猪名川を渡ろうとしたのですが、洪水で橋が流れてしまいます。
 村人はいかだを作って渡そうとしましたが、うまくいきません。そこで行基が合掌して祈ったところ、何万という鯉が集まってきて、対岸までびっしりと背を連ねました。行基は鯉たちの背を渡って、無事に治田寺へ行くことができたということです。
 村人たちはこの不思議な出来事を「鯉橋(こいばし)」と呼び、以後、鯉を食べるのを禁じました。いまでもこのあたりに住む人たちは、鯉をとても大切にしています。
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