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ホーム > 知る・歴史 > 紀の川のむかし> 紀の川流域の地形 和歌山平野の古地理変遷


(1)紀の川流域の地形

1.和歌山平野の古地理変遷
(1)最終氷期最盛期頃の地形環境
(約18,000年前、図8)

 最終氷期の最盛期頃は、過去200万年の内で気候がもっとも寒冷な時期で、気温は約6℃低かった。
 そのため、大陸氷河が発達し、海面は今より約140mも低下していた。
 そうすると、瀬戸内海は全域にわたって陸化し、当時の紀の川は今の和歌浦沖で古大阪川と合流し日ノ埼付近で太平洋に注いでいた。沖積層の基底礫層に刻まれた谷地形をみると、和歌山市域付近には、−20m付近に平坦面があり、古紀の川は現流路より北側を東西に流れていた河川とほぼ和歌川の位置を流れていた河川の2つの流路があったようである。
図
最終氷期最盛期頃の地形環境復原図
(日下雅義、1984による)

(2)縄文海進頂期頃の地形環境(約6,000年前、図9)
 縄文時代の前期には、気候が温暖化して、気温が現在よりも2〜3℃高かったので、海面 も現在より2〜3m高くなり、現在の和歌山平野の大部分は浸水し、奥深い内湾となっていた。海岸線は、禰宜(ねぎ)から紀伊付近にあり、和泉山脈や岩橋(いわせ)山地の麓を洗っていた。また、磯の浦から南東へ延びる巨大な砂州が形成され、紀伊湾口を閉塞しつつあった。

(3)弥生〜古墳時代頃の地形環境(約1,500年前、図10)
 縄文後期から弥生時代にかけての海面低下と紀の川の活発な堆積作用によって、三角州低地は著しく拡大した。紀の川の本流は、梶取(かんどり)付近で大きく蛇行し、現在の土入(どうにゅう)川から和歌川のルートを流れ、和歌浦に注いでいた。河口を少しさかのぼったところには、紀伊湊があった。聖武天皇の和歌浦行幸の記録では紀の川を渡らずに和歌浦へ行っている。
 また沿岸には、第2列目の砂州が形成された。砂州背後の木ノ本から西庄にかけてはラグーン(潟湖)が残り、潟港があった。

(4)古代〜中世頃の地形環境(約400年前、図11)
 古代〜中世頃、紀の川下流には多くの中州が形成され、流路は数本に分流していた。11世紀末の洪水時に主流路は内側の砂州を一気に貫通し、現在の水軒川のルートをとり、和歌山市の大浦へ注ぐように変化した。

(5)明治時代頃の地形環境(約100年前、図12)
 15世紀末の明応年間(1492−1501)に和歌山市湊の和田浦から多くの寺院が吹上に移転しており、紀の川の流路と河口はその頃ほぼ現在と同じ位置になったと考えられる。明治時代頃の市街地は和歌山城を中心とした地域に発達し、微高地を除く低地の土地利用は、大半が水田となっていた。
図 図
縄文海進絶頂期頃の地形環境復原図 弥生〜古墳時代頃の地形環境復原図
図 図
古代〜中世頃の地形環境復原図 明治時代頃の地形環境復原図
(上記の図は、日下雅義、1980による)

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