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ホーム > 知る・歴史 > 紀の川のむかし> 紀の川の歴史 万葉集と紀の川の景観


(2)紀の川の歴史

1.万葉集と紀の川の景観
 『万葉集』記載の紀伊国の歌は少なくとも103首、実際は110〜130首ぐらいと考えられている。これらの歌は大和国から天皇の紀伊行幸に際してのものが主で、額田王・有間皇子・柿本人麻呂・山上憶良・山部赤人・笠金村・大伴家持といった代表歌人である。
 なかでも紀の川にそう南海道を下幸した時の歌を上流からみると、まず眞土山から紀伊国に入る大宝元年(701)官人、調首淡海(つきのおびとおすみ)が歌った

 あさもよし 紀人ともしも 眞土山 行ききと思らむ 紀人ともしも (巻1−55)

「あさもよし」は紀伊の枕詞であるが、それには朝のすがすがしさや、麻衣の清らかさや浅葱の包光を表現するなど古くから解釈に諸説がある。しかし、いずれも清らかな感じである。紀の川にそう自然景観を描写した紀伊国への愛着を想い、紀の川の朝霧の風光や紀の川畔の畑で栽培される麻の収穫が画かれている。
斉明4年(658)の歌に

 朝霧に濡れにし衣きさずして ひとりか君が山路越ゆらむ (巻9−1666)

 いかにもすがすがしい紀の川の風景を感じとれる枕詞と思う。南国の紀伊の暖かさは大和と異なる紀の川の朝霧に象徴されるものなのである。
神亀元年(724)聖武天皇に随伴した笠金村の

 天(あま)飛ぶや 軽の路より玉だすき 畝傍をみっつ 麻裳吉木道に入り立ち 眞土山越ゆらぬ君は(巻4−543)

藤原京をたち眞土山を過ぎた隅田の紀の川の河原を歌ったものに

 眞土山 夕越え行きて 蘆前(いほさき)の角太(すみだ)河原にひとりかも寝む(巻3−298)

それより橋本市妻に人り大宝元年(701)の持統太上天皇と孫の文武天皇の歌に

 妻の杜(もり) 妻寄しこせね 妻といひながら (巻9−1679)

そして橋本市の相賀橋にさしかかるが、

 大和には聞こえ行かぬか 大我野の竹葉刈り敷き蘆(いほ)りせりとは (巻9−1677)

 紀の川中流の畿内の南限とされる妹背山の歌は、そこが畿内のはずれで紀伊国へ入る別離の地であることや、紀の川の狭隘部をなす結晶片岩の背山、妹山の風景はより一層の詩情をそそる地域でもあり、ここに15首の万葉の歌が集中する。

 人ならば 母が最愛子(まなこ)ぞ あさもよし 木の川の辺の 妹と背の山 (巻7−1209)
 麻衣 着ればなつかし 木の国の 妹背の山に 麻蒔く吾妹(わぎも) (巻7−1195)

これより紀の川河口であった和歌浦の玉津島への奉幣が、天皇即位後の恒例の行事であった。
神亀元年(724)山部赤人の歌に

 若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る (巻6−919)
 沖つ島 荒藻の玉深 潮干満ち いかくり行かば おもほえむかも (巻6−918)

暖かい紀の川河口の干潟、和歌浦の描写は、万葉集の秀歌を代表するものである。
多くの万葉集の秀歌は、いずれも紀の川の自然と人心を偲ぶにたるものである。


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