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ホーム > 知る・歴史 > 紀の川のむかし> 紀の川の歴史 紀の川の治水


7.紀の川の治水
(1)藩政以前と藩政時代の治水工事
 JR紀勢線の紀和駅から西方の鉄道線路に沿った南の街道は、俗に古堤といって往古の堤防であったといわれる。以前、紀の川はこの辺りまで流れていたものらしく、洪水の時はしばしば氾濫して、川堤が切れて淵となったという。
 慶長5年(1600)に浅野幸長が和歌城に入城してからこの堤防を補修して街道とした。文化6年(1823)に編纂された『紀伊国名所図会』に古堤のことを記して「中野島村の北にあり、ここ古は紀の川ながれにて堤ありしところなりといふ。いまの松原とのあいだに少しく小たかきをいう」とある。
 昔は民家が密集しているような処には、部分的に小さな堤を築いたようであるが、それ以外は街道が洪水を防ぐ堤防の役を果したようである。
 紀の川海岸の岩出町から八軒家に至る道路は、古の牟漏御幸道でその代表的なものである。後世になって両側に松樹を植えて堅固なものとした。
1)柳堤
 元和5年(1619)に頼宣が浅野氏に代って紀伊ノ国に封ぜられてから、和歌山城郭の規模を拡大し、洪水防御と城郭防衛を兼ねて浅野時代の堤防より北へ約100m程の処に新堤を築造した。この堤防は高さ約3m、天端幅約5mもある立派なもので、嘉家作の辺から地蔵ノ辻の附近で折れ、現在の堤防と交わるまで約1.7kmに及ぶ大堤で、嘉家作町の附近には堤上に街路樹として柳が植えてあったので柳堤と呼ばれたが、一名横須賀堤ともいわれた。横須賀衆覚書(写本)には「江戸御上下之刻、横須賀者欠作り(嘉家作)堤、家はなれて御目見申上候様にと被仰出候。右堤に並木之柳之故柳堤と申候。又横須賀衆定たる御目見場所故横須賀堤と申ならわし候」とある。
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柳堤
2)松原堤
 地蔵ノ辻から八軒家までは、嘉家作の堤防ほど堅固なものではないが、両側に松並木を植え一朝有事の際にはこの松並木を切倒して敵の侵人を防ぎ、洪水の際も濁流が市中に侵人するのを防ぐためのものであったと伝えられる。紀伊続風土記には「嘉家作より東は上方並に大和の官道にて、左右列松を植え道を表す」とあって、この堤防は上方街道(現24号線)として重要な路線であった。
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松原堤
3)千間堤
 伊都郡かつらぎ町大谷字新在家の南の紀の川に沿って築かれた堤防で、天端幅約3m、長さ約350m程ある。
 寛文年間(1661〜1672)に頼宣の命によって築造されたものであると伝えられる。
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千間堤
4)花見堤
 桃山町百合から壇にかけて紀の川沿いにある堤防で、天端幅約4m、長さ約2kmに及ぶ長堤である。
 寛永3年(1626)、あるいは寛永元年ともいうが、頼宣がこの地方を視察したとき、藩士の安藤忠兵衛を召して「此の地新田となすべき地なり、開発すべし、開墾せば汝に賜うべし」といったといわれ、この時から始めてこの地を開墾して新田とし、元禄15年(1702)に検地があった。この堤防工事はおそらくこの新田の開発と時を同じくして始められ、その後も長い年月をかけて工事が行われ、現在のような立派な堤防ができ上がったものであろう。
 花見堤というのは、紀の川の南岸から山麓にかけて数10町歩の桃園が続き、春陽開花の頃、堤の上から見る眺めのすばらしさから名付けられたものという。
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花見堤
5)上様堤
 伊都郡かつらぎ町三谷地先の紀の川に沿ってある堤防で、天端幅2.2m、長さ約300m程ある。徳川三代将軍家光が、高野山に大塔を建立しようとして材木をここへ積んでおいたところ、たまたま大出水に逢い、材木を総て流失してしまった。そこで新に堤を築いて洪水を防ぎ、材木の置場としたと伝えられる。この堤は将軍の命令で築かれたので、上様堤というのだという。現在は道路に利用され、両側に家が建ち並んでいる。
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上様堤


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