砂木の堰(美山町 5村4kmにわたる和泉の水路
大丸堰(美山町) 天保元年(1830)に新築
子来用水(和知町) 荒れ地30町歩を開発
江戸中期、現在の和知町に開発した用水路。安永9年(1780)、川勝善五郎が総延長7,200mの用水路、子来井根を開削し、市場・大倉・奥・升谷・篠原の5ケ村に広がっていた荒地30町歩余を新田開発しました。天保10年(1839)には、開墾記念として、子来成就塔が市場の南にある稲荷神社の境内に建てられています。
大迫井堰(和知町) 上和知川左岸に新田を開いた
和知町の上乙見川にある井堰。享和元年(1801)から翌年にかけて行われた大迫井根開削工事で作られました。この工事は村人たち自ら工事を行ったとされ、今もその流路は開削当時とほとんど変わっておりません。
綾部井堰(綾部市) 福知山盆地由良川左岸を潤す大堰
綾部市や福知山市の左岸地域の約660haの農地を潤す灌漑用水を取る井堰。洪水のたびに破損部分の修復を繰り返していましたが、昭和28年の台風13号による大水害で大破。その後、コンクリート造の永久構造に改められました。
栗村井堰(綾部市) 福知山盆地由良川右岸を潤す大堰
綾部市位田町にあり、栗村・長砂・小貝・私市を灌漑しています。明智光秀が福知山城主であった時代に築いたとされています。洪水のたびに破損と修復を繰り返し、昭和28年に永久構造のコンクリート堰にしました。
馬場の水路(三和町) 私財による江戸末期の用水隊道
三和町菟原下、菟原中の三剣(みつるげ)井根から引かれた水路が、馬場の丘を貫通するトンネル部分、それを馬場の水路と呼んでいます。江戸時代に、大地主が私財を投じて作ったとされ、現在もこのトンネルは残されています。
梨ノ木井堰(三和町) 土師川左岸の甚平衛溝に至る
 
池田堰(福知山市) 中世、塩見嶋太の功によるという
 
長田井堰(福知山市) 土師川流域で最多の決壊
 
堀井堰(福知山市) 土師川最下流の井堰
現在、福知山市の上水道の水源地井口(いぐち)に井堰があります。福知山駅の東から北へ流れ、井口から駅の東まで約2,500mの水路を「甚平衛溝」と呼んでいます。明智光秀が福知山城を近世的に改築するために作られたのでは、と考えられています。
河守大井堰(大江町) 雲原川の水を河守にもたらす
栗原川から分かれた水が山沿い、町中、水田など約2kmにわたって流れ、由良川に注ぐ井堰。江戸時代中期以降、農業や村人たちの生活を支えていました。また、所々に水をせき止めるついたてがあり、火事の時の防火水槽の役割も果たしていました。