
九頭竜川流域で稲作に基盤を置く弥生式文化が定着するのは、中期前葉といわれている。弥生時代の遺跡は、縄文時代や古墳時代に比べて発見数が少なく、全体像が明らかではない。主要な集落跡は、三国町下屋敷遺跡・観音洞穴遺跡、坂井町長屋遺跡・河和田遺跡、福井市荒木遺跡・糞置遺跡・上河北遺跡などである。このうち、糞置遺跡は、前期から後期に至る土器群や土偶・人面土器・鳥形土器・紡錘車などの土製品、弓・鍬・鋤・高杯・手杓などの木製品など種々の遺物が大量に出土し、墓群が発掘されるなど、弥生人の生活を知る上で貴重な資料を提供している。
弥生時代の福井平野は、九頭竜川・日野川・足羽川からの流送土砂によって沖積化がかなり進んだ。人々は、九頭竜川下流の竹田川や田島川沿い、そして兵庫川沿いの井向などでは河川の堆積作用によって誕生した微高地である自然堤防上に住居を構え、その下の低湿地で稲作を営んでいた。
弥生人がある地域に定住してムラを形成し水稲耕作を生活の基盤とするようになると、農業祭祀が生まれてくる。そのとき、祭器として用いられたものが銅鐸である。九頭竜川流域では、三国町米ケ脇遺跡、春江町井ノ向遺跡、鯖江市新遺跡から銅鐸が出土している。米ケ脇遺跡は、わが国の銅鐸分布の北限である。また、井ノ向遺跡からは2個の銅鐸が出土し、鐸身の両面にヒト・スッポン・カエル・シカ・サギ・高床式建物などの絵が描かれている。また、三国町下屋敷遺跡からは、未完成品ではあるが凝灰質砂岩製の銅鐸の鋳型が発見されており、北陸の地で銅鐸を鋳造する工人たちが存在していたことを窺わせるものとして注目されている。
弥生時代の福井平野は、九頭竜川・日野川・足羽川からの流送土砂によって沖積化がかなり進んだ。人々は、九頭竜川下流の竹田川や田島川沿い、そして兵庫川沿いの井向などでは河川の堆積作用によって誕生した微高地である自然堤防上に住居を構え、その下の低湿地で稲作を営んでいた。
弥生人がある地域に定住してムラを形成し水稲耕作を生活の基盤とするようになると、農業祭祀が生まれてくる。そのとき、祭器として用いられたものが銅鐸である。九頭竜川流域では、三国町米ケ脇遺跡、春江町井ノ向遺跡、鯖江市新遺跡から銅鐸が出土している。米ケ脇遺跡は、わが国の銅鐸分布の北限である。また、井ノ向遺跡からは2個の銅鐸が出土し、鐸身の両面にヒト・スッポン・カエル・シカ・サギ・高床式建物などの絵が描かれている。また、三国町下屋敷遺跡からは、未完成品ではあるが凝灰質砂岩製の銅鐸の鋳型が発見されており、北陸の地で銅鐸を鋳造する工人たちが存在していたことを窺わせるものとして注目されている。
縄文時代早期後半から前期にかけては、「縄文海進」と呼ばれる海水面上昇の時期があり、福井平野一帯が「古九頭竜川湖湾」と呼ばれる内湾を形成し、その岸辺に沿って福井市北堀遺跡(早期・前期)や深坂小縄遺跡(前期)が立地していた。その後、古九頭竜川湖湾は、九頭竜川・日野川・足羽川からの流出土砂によって埋められていき、沖積平野が形成されて徐々に縮小していったが、岸辺では芦原町舟津貝塚などに見られるように、水の近くで生活が営まれるようになった。
縄文前期の遺跡は、福井市三十八社遺跡や前出の遺跡などが著名であり、出土した土器は近畿系を中心に瀬戸内系、中部系、関東系のものも見られ、東西文化の交流の姿をよく示している。
縄文時代中期を迎えると広範囲に遺跡が広がる。その代表的な遺跡は、福井市浜島遺跡、朝日町栃川遺跡、南条町上平吹遺跡、池田町常安遺跡、三国町北杉谷遺跡などである。なかでも、和泉村小谷堂遺跡からは竪穴式住居跡が検出され、角野前坂遺跡からも20m四方の範囲に5棟の住居跡が確認された。また、大野市右近次郎遺跡からは、13棟と福井県内最大級の住居跡が発見された。北杉谷遺跡や芦原町舟津・井江葭遺跡の3遺跡は、加越台地南縁に形成された主淡貝塚を伴う集落跡であり、ヤマトシジミを主として、イノシシ・シカ・魚骨などとともに、磨製石斧、石皿、磨石、土器などが出土している。
このような遺跡から古代人は、石を用いて漁労や狩猟といった採集生活を営んでいた様子を窺い知ることができる。中期末葉になると、近畿系の土器群が影をひそめ、北陸地方特有の「大杉谷式」と呼ばれる土器群に絞り込まれるようになる。
後期になると遺跡数が減少してくるが、福井市上河北遺跡、勝山市三室遺跡、和泉村後野遺跡などが主要な遺跡である。この時期は、再度近畿地方からの影響が強くなり、近畿系の土器が多くを占めるようになる。
晩期の代表的な遺跡は、福井市林遺跡、勝山市鹿谷本郷遺跡、大野市佐開遺跡などである。この時期の土器には、東日本の土器文化の影響を受けたものも発見されている。
縄文前期の遺跡は、福井市三十八社遺跡や前出の遺跡などが著名であり、出土した土器は近畿系を中心に瀬戸内系、中部系、関東系のものも見られ、東西文化の交流の姿をよく示している。
縄文時代中期を迎えると広範囲に遺跡が広がる。その代表的な遺跡は、福井市浜島遺跡、朝日町栃川遺跡、南条町上平吹遺跡、池田町常安遺跡、三国町北杉谷遺跡などである。なかでも、和泉村小谷堂遺跡からは竪穴式住居跡が検出され、角野前坂遺跡からも20m四方の範囲に5棟の住居跡が確認された。また、大野市右近次郎遺跡からは、13棟と福井県内最大級の住居跡が発見された。北杉谷遺跡や芦原町舟津・井江葭遺跡の3遺跡は、加越台地南縁に形成された主淡貝塚を伴う集落跡であり、ヤマトシジミを主として、イノシシ・シカ・魚骨などとともに、磨製石斧、石皿、磨石、土器などが出土している。
このような遺跡から古代人は、石を用いて漁労や狩猟といった採集生活を営んでいた様子を窺い知ることができる。中期末葉になると、近畿系の土器群が影をひそめ、北陸地方特有の「大杉谷式」と呼ばれる土器群に絞り込まれるようになる。
後期になると遺跡数が減少してくるが、福井市上河北遺跡、勝山市三室遺跡、和泉村後野遺跡などが主要な遺跡である。この時期は、再度近畿地方からの影響が強くなり、近畿系の土器が多くを占めるようになる。
晩期の代表的な遺跡は、福井市林遺跡、勝山市鹿谷本郷遺跡、大野市佐開遺跡などである。この時期の土器には、東日本の土器文化の影響を受けたものも発見されている。