2.1継体天皇の治水伝説

継体天皇が越前の国に住み男大迹王と呼ばれていた頃は、現在の福井平野が大きな湖沼であって、そこへ九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいた。
大昔は、それらの河川の川底が深く、人が住む土地は高かったが、いつの間にか上流から運ばれてきた土砂によって川底が上がり、洪水のたびに水害に見舞われていた。その繰り返しによって大湖が誕生したものと想像される。そこで、男大迹王は朝命によって三国において河口を切り開き、大湖沼の水を日本海へ流出させ、その跡地を一大田園と化すとともに、澪筋を定めて舟運や灌漑の便を図ったと伝えられている。
福井市内を見下ろせる足羽山頂には、継体天皇の徳を偲んで足羽神社が造営されている。また、三頭身の石像が明治16年(1883)に建立され、福井平野発展の守り神として、今も人々に崇められている。
(※福井市史Ⅰ p.21~22,他)
大昔は、それらの河川の川底が深く、人が住む土地は高かったが、いつの間にか上流から運ばれてきた土砂によって川底が上がり、洪水のたびに水害に見舞われていた。その繰り返しによって大湖が誕生したものと想像される。そこで、男大迹王は朝命によって三国において河口を切り開き、大湖沼の水を日本海へ流出させ、その跡地を一大田園と化すとともに、澪筋を定めて舟運や灌漑の便を図ったと伝えられている。
福井市内を見下ろせる足羽山頂には、継体天皇の徳を偲んで足羽神社が造営されている。また、三頭身の石像が明治16年(1883)に建立され、福井平野発展の守り神として、今も人々に崇められている。
(※福井市史Ⅰ p.21~22,他)

水稲耕作が始まった弥生時代以降の古代人たちは、発掘された集落跡遺跡から生活の拠点を九頭竜川や日野川周辺の沖積平野に求めたことが分かる。古代人は、平常時には河川の恵みを受け、洪水時にはその驚異に畏怖しつつ暮らしていたものと想像される。