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3.奥越総合開発事業

3.1 共同開発の経緯

昭和26年(1951)に策定された九頭竜川総合開発計画に基づき、九頭竜川水系では真名川のほか、石徹白川(大野郡和泉村後野)、九頭竜川本川(和泉村下山)、足羽川(今立郡池田村河内)でダム建設の調査が行われたほか、竹田川などで水資源開発の検討が行われた。
真名川総合開発事業が一段落すると、第二次総合開発事業としてこれらの調査が本格化した。その一つに、九頭竜川に巨大なダムを築き、大規模な電源開発地帯とする計画が、電源開発㈱(電源開発法により昭和27年9月に設立)と北陸電力㈱とが競願するかたちで、昭和32年(1957)の春に登場した。
北陸電力㈱の計画案は、九頭竜川の大野郡和泉村長野と支流である石徹白川の同村後野にダムを造り、大野市の湯上と西勝原に2つの発電所を建設し、最大出力25万kwの発電を行うというものであった。一方、電源開発㈱の当初計画は、和泉村長野に九頭竜発電所を建設するなど31万5千kwを開発するのいうものであったが、翌33年(1958)2月になって、九頭竜川上流の水を足羽川に落とすなどして、各所にダムと発電所を造り52万7千kwの電力を開発するという壮大な計画案を発表した。
福井県の産業界は、北陸電力㈱が開発すれば電力が北陸地域に供給され、建設工事も福井県内に基地を置くであろうとして、北陸電力㈱を支持する空気が強かった。電源開発㈱が開発する電力は、主として太平洋側の工業地帯に供給されることとなり、工事の基地も岐阜県側に置かれる公算が大きく、福井県に益するところは少ないと考えられていた。
一方、水没地域の住民は、補償に最大の関心事があり、山村での厳しい生活を解消するためには、資金力において優れる電源開発㈱による開発を期待していた。
このように、両者競願の計画は、人々のさまざまな思惑が絡んで一層複雑なものとなって推移していった。
両者競願に決着がついたのは、昭和36年(1961)6月のことであった。通産省公益事業局は、両者の計画を折衷的に取り入れ、上流の長野ダム(後の九頭竜ダム)については電源開発㈱がロックフィル方式で建設し、下流の発電所については北陸電力㈱が行うという調停案を自民党政務調査会北陸地方特別委員会に提出した。その内容は、完成後の発電施設はすべて北陸電力㈱に管理させ、北陸電力㈱は電源開発㈱に長野ダムの借入料を支払うというものであった。