天平神護2年(766年)、東大寺領道主荘開田絵図によると「生江川」となっています。「大乗院寺社雑事記」の絵図には「北庄川」、「越前地理便覧」には上流を「池田川」、下流を「市波川」と記してあります。江戸時代、福井城下では、福井川もしくは大橋川とよばれていたようです。「足羽川」と総称されるようになったのは、江戸時代中期以降であっただろうといわれています。