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天平神護2年(766年)、東大寺領道主絵図によると「味真川」となっています。これは、浅水川の上流が味真野に始まるためといわれています。また、「万葉集」の大伴家持の長歌には、叔羅川(シラク川もしくはシラキ川)の名前が出てきているが、国府(現武生市)浜辺を流れる日野川を指しているといわれています。中世には、「源平盛衰記」の寿永2年(1183年)の燧城(現南条郡今庄町)攻めの中で「日野河」と書かれており、日野山の西側を北流するために名付けられた伝えられています。近世には、中上流を日野川、中下流を白鬼女川と区別しています(「越前地理便覧」1685年)。また、水源の夜叉ヶ池に祀る信露貴神社の由来から信露貴川としている古文書もみられます(「越藩拾遺録」)。日野川という名前に統一されたのは明治初年成立の「越前三大河川沿革図」に、その名が見られますので、明治以降であろうといわれています。

 


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