九頭竜川流域誌


3.7 伝統産業

(1) 概要
 伝統産業としては、今立町五箇地区を中心とした約1500年の歴史のある越前和紙、700年の歴史に培われた武生市の打刃物業、鯖江市河和田地区を中心とした1450余年の歴史を有する越前漆器、平安時代末期にはじまり日本六古窯の一つに数えられる宮崎村の越前焼などが全国的に有名である。
(2) 越前和紙
 越前和紙は、伝説によると男大迹王のおつきの女性であった川上御前が、紙すきの技法を今立町五箇の村人に教えたのが始まりとされている。越前和紙の里である五箇地区には、紙すきの始祖神として水波能亮命(川上御前)を祭祀する大滝神社がある。
 正倉院文書の宝亀5年(774)には、紙を税として納める国の一つに越前の国の名前がみられる。これには、天平勝宝7年(755)に越前より写経用紙が税として、奈良の都へ送られていることが記されている。また、法華経100部800巻、灌頂経1部12巻などが東大寺に貢上されている。このように、古文書からみると越前では7世紀後半から8世紀前半にかけて、紙が漉かれていたことを窺い知ることができる。
 延長5年(927)には、紙原料の楮・雁皮・糊空木などが京の都へ送られている。正倉院には、天暦5年(951)越前国足羽郡庁と記された奉書風上質紙が現存している。
 越前奉書は、南北朝時代(1338年頃)に越前守護の斯波高経が道西掃部に紙漉きを命じて献上させ、その優れた紙を賞賛して奉書と命名し、それ以後出世奉書として有名になった。朝倉氏の統治時代の文明9年(1477)には、雁皮を原料として漉いた鳥の子紙を都へ送り、貴族達に大いに喜ばれた。こうして製紙業は、中世になると本格的に専業化し、紙座を形成するようになり、歴代領主の手厚い保護を受けて発展していった。
 道西掃部の子孫で三田村家の祖である大滝掃部は、織田信長に御用紙工として重用され、奉書の包紙に「七宝印」を押すことを許されていた。豊臣秀吉が天下人となり、丹羽長秀を北ノ庄に置き越前を統治させたとき、長秀も大滝掃部に奉書紙職を安堵させた。
 このように、奉書紙売買などの特権を許されている三田村家は、江戸時代に入り福井藩主となった松平秀康によっても、御用紙職としての特権を認められた。同時に徳川家康からも江戸幕府の御用紙職として任命され、越前和紙の地盤が固められるともに、御用紙屋としての独占的地位を得た。(※今立町誌 p.450、ふくいの工芸 p.175〜178)
 当時幕府に納めた御用紙は、奉書のほか墨流し・檀紙・鳥の子などであった。
 江戸時代、越前における和紙の産地は10地区を数えたが、現在においても盛んな地区は今立町五箇地区のみである。五箇地区の用紙は、かつて、藩札・幕府御用紙・太政官札などのほか、大正8年(1919)ベルサイユにおける第一次世界大戦講和会議の条約用紙などに用いられるなど、特選的用途をもった和紙の名門といっても過言ではないほど、輝かしい歴史を有している。現在では、洋紙には持ち合わせていない和紙独特の風合いを有していて、奉書や小判鳥の子紙、画仙紙など、特殊な用途の上質紙として用いられている。
 
越前和紙
越前和紙
原料の楮や三又などは、かつては茨城県・高知県・岡山県などから仕入れていた。副原料である「ネリ」に使用する「とろろあおい」は、付近の服間・味真野産や石川県産を用いていた。(※日本地誌10 p.382)
 五箇地区において和紙業が盛んになったのは、山麓の集落特有の耕地面積が寡少なことが一つの要因ではあるが、湧水群など水に恵まれていることが最大要因である。昭和49年(1974)、今立町に「和紙の里会館」が完成した。そして、越前和紙は同51年(1976)に通商産業大臣から伝統工芸品の指定を受けた。
(3) 越前漆器
 越前漆器は河和田塗とも呼ばれ、平安時代末期、藤原周衡の私領地の河和田荘(現鯖江市河和田町)に由来し、古くから有名で1200〜1300年の歴史をもつといわれている。
 昔、男大迹王から冠の塗り替えを命ぜられ、それを請けた塗師が黒漆で冠を塗り、併せて三つの椀と称せられる黒塗りの食器を献上した。男大迹王は黒塗りの美しい光沢に感動され、土地の職人に漆器作りを奨励され、それが越前漆器の始まりであると伝承されている。(※福井の工芸 p.154)
 河和田地方片山に残る漆器業は、記録に残るものとしては、延喜5年(905)に全国で漆を正税とする国名のなかに越前の名がみられる。
 慶長18年(1613)には、日光東照宮造営に際して水戸・姫路両藩の御用漆掻き人として、越前漆掻き職人たちの名が出ており、元禄年間(1688〜1704)にも越前戸ノ口の工人が塗笠を製作したとある。
 享和の頃(19世紀初頭)、下地に柿渋を塗ることが発明されて堅牢さを増し、仏事の盛んな越前において、椀や膳などとしてよく利用されていた。嘉永年間(1848〜1854)には、京都から蒔絵技法が伝わり、近代になって輪島から沈金技法が導入され、その後に山中産地とも交流が生まれ、漆器生産が長足の進歩を遂げた。
 黒塗りで堅牢な椀として片山塗の名で生産されていたのが、その後に優美さが加わった椀や膳などが河和田塗あるいは越前塗として名が知られるようになり、旅館や食堂などの業務用食器として多用され、その生産分野では全国一の生産地となった。
 江戸時代には、福井藩で福井塗、綿塗とも呼ばれ堅牢で雅味のある今立町の栗田部塗、同町の赤坂膳、勝山藩では根来塗の平泉寺椀などが生産されていた。しかし、それらの漆器は明治期になってから政府からの援助が無くなり、後継者の不足なども重なって生産が中止された。越前では河和田塗のみが残り、現在に継承されている。
 
越前漆器
越前漆器
越前漆器は昭和50年(1975)5月、通商産業大臣から伝統工芸品に指定された。そして、昭和55年(1980)には越前漆器会館が鯖江市河和田に完成して、技術の研修、後継者の育成、資料の保存など越前漆器のセンターとしての役割を果たすようになった。ここでは、毎年5月3日から5日には漆器祭りが行われ、多くの人たちで賑わっている。
 越前漆器は、椀のほか盆や膳、重箱、硯箱、文庫、花器などの幅広いものが生産されている。     
(4) 越前打刃物
 越前の鉄器は、弥生時代〜古墳時代には砂鉄が産出し、大陸からの影響を受けて鉄器文化が確立していたことが、鉄器鋳造遺跡の存在によっても窺い知ることができる。
 越前打刃物の起源は、南北朝時代の延元2年(1337)、京都粟田口の刀匠である千代鶴国安が府中(現武生市)に来て、この土地が鍛冶に適していることを知り定住し、刀剣を製作する傍ら農具用の鎌を作り、その技法を土地の人たちに伝授したのが始まりとされている。これは、文政6年(1823)に書かれた「和融職元記」の序文に記されている。
 江戸時代初めに、福井藩主松平秀康の付家老で府中藩主であった本多富正が、武器製造のために鍛冶師を積極的に保護して奨励に努めた。その後、延享年間(1744〜48)には鎌・菜切・釘などの鍛冶職が27軒となった。寛政9年(1797)に記された「鍛冶仲間記録(一)」によれば、鍛冶仲間が組織され、その中に吹子株の規約(組合の組織及び個人の利益を守り信用を保持する)がつくられたと書かれている。この株仲間の形態は、江戸中期享保年間(1716〜35)に江戸幕府の公認となり、やがて各藩でも採用されるようになっていった。
 
越前打刃物
越前打刃物
寛政12年(1800)の「鍛冶製法伝書」には、鍛冶道具の使い方、鋼の鍛え方、焼き入れ方法、鎌鉈の打ち方、吹子の使い方などを詳細に記しており、これが今日の越前打刃物の伝統技法の基礎となっている。
 文久2年(1862)の鍛冶仲間記録によると、府中藩に打刃物の生産役所が設けられ、藩の直扱いとして四国・九州・中国地方より注文が多量にあったことが記されており、藩が販路の開拓に熱心であったことが窺い知れる。
 越前鎌が江戸時代に全国各地に売り広められ、生産量が全国一に発展した理由は、行商人の努力に尽きるが、河和田の漆掻き職人が毎年東北・関東・中部・山陰の各地へ漆の採集に行ったとき、代金の代わりに越前鎌を置いてきたので、鎌をよく使う農家では切れ味の良い鎌として重宝したことも大きな要因であった。
 越前打刃物は、昭和54年(1979)に打刃物としては全国で初めて通商産業大臣から伝統工芸品指定を受けた。現在は、武生市池の上刃物工業団地を中心に、両刃包丁・片刃包丁・鎌・鉈・鋏などを生産している。
(5) 越前焼
 越前焼は、日本六大古窯の一つに数えられ、男性的な常滑(愛知)、無釉で微妙な変化をもつ備前(岡山)、優雅ななかに厳しさの潜む信楽(滋賀)、土味と釉薬の瀬戸(愛知)、素朴であるが多彩な丹波(兵庫)と比較して地味な越前といわれるように、生活用雑器を作り続けてきたのが特徴である。
 その歴史を振り返ると、様々な紆余曲折を経て今日に至っている。
 古墳時代末期の遺跡からは、各地で須恵器が出土している。この須恵器は、5世紀から12世紀にかけて生産された陶質土器で、その製作技術は5世紀初め頃に大陸から渡来したものといわれている。越前では、6世紀中頃に金津町の瓦谷窯や細呂木柿原窯などで須恵器が生産された。そして、永平寺町の大畑窯からは7世紀初頭、松岡町野中山王窯からは7世紀末に焼成された出土品が出ている。福井市や武生市周辺でも、7世紀代の須恵器窯跡が見られる。
 
神名ヶ谷須恵器窯跡 (宮崎村)
神名ヶ谷須恵器窯跡 (宮崎村)
宮崎村を中心に、織田町、武生市安養寺一帯に広がる古窯跡は、推定3,000基にのぼるといわれる北陸随一の古窯群地域である。このあたりには、奈良時代からの須恵器窯跡群が全体で60基余り確認されている。平安時代に入ると、他地域の窯が退潮に向かうのに対して、宮崎村小曽原地区の窯のみが継続して、製品を造っていた。
 平安時代の末期になって、東海地方の猿投・常滑窯などの技術がもたらされ、小曽原地区で越前窯が開窯する。このときから、須恵器の小品に代わって大型の甕・壺・すり鉢など生活必需品が生産されるようになった。釉薬は鎌倉・室町中期まで使用されなかった。
 古越前は能登半島の珠洲焼とともに、中世においては北陸地方を代表する焼き物であり、図1.3.18のとおり遠く青森や北海道南部にまで商圏を広げていた。しかし、室町時代中期頃が全盛期であって、越前の国が戦場となるに従って衰退の一途をたどることとなる。
 室町時代から桃山時代になると、窯は丘陵地から集落近くの台地へ移り、窯の構造も地上式となって規模も縮小されるようになった。この頃から鉄釉が使われはじめ、彫文装飾が付けられるようになった。
 江戸時代の越前焼は、お歯黒壺・茶入・徳利・おろし皿などが焼かれ、享保年間(1716〜35)には江戸へ出荷されるようになった。しかし、江戸中期になると瀬戸・唐津などの産地から陶器や磁器が進出してきたため、生活雑器を生産するにとどまるようになった。
 
 平安時代の技法が今なお継承されている越前焼  平安時代の技法が今なお継承されている越前焼
平安時代の技法が今なお継承されている越前焼
明治時代を迎えると越前焼きの製品も建築用材である粘土瓦、土管などが焼かれるようになる。また、九谷焼との技術交流も進み、上絵技術法が導入され、九谷風の茶碗や花器などが作られた。
 昭和40年代に入ると陶芸ブームが到来して、陶磁器に興味をもつ人々が増えてきたため、福井県と宮崎村は越前焼を広く紹介するとともに、振興目的をもって陶芸村建設が始まり、再び全国の注目を集めるよあうになった。昭和46年(1971)には、県立陶芸館が完成し、昭和57年(1982)年からは県内在住の窯元参加による越前陶芸祭が陶芸村で行われるようになった。越前焼は昭和61年(1986)3月、伝統工芸品産地の指定を受けた。
図1.3.17 伝統工芸館の位置図
図1.3.18 15〜16世紀の越前焼と珠洲焼の流通(※日本海交易と一乗谷 福井県立博物館)
(6) 越前瓦
 嶺北地方の民家の屋根に見られる青味を帯びた暗灰色の瓦は、「銀鼠瓦」と呼ばれて耐寒性に優れた堅牢な瓦として、北陸や東北日本海沿岸地方、さらには北海道などの寒冷地で重宝がられた越前特産品であった。昭和40年代頃まで、金津町の旧細呂木村は武生・丹生と肩を並べる瓦の一大産地であった。最盛期の昭和3年(1928)〜7年(1932)頃、金津には瓦工場が30軒余りもあった。
 銀鼠瓦は、瓦の表面にベンガラを塗って焼いた茶色から暗赤褐色の瓦(赤瓦)が、近代になってベンガラにマンガンなどを添加して改良されたものである。
 金津の赤瓦は、江戸後期において三国湊の問屋によって、北は秋田(秋田県岩城町天鷺神社)まで流通している。
(7) 福井の鋳物
 福井県には、古くから鋳物の生産地がいくつかあった。この中で一番古い所は、松岡と伝えられている。松岡鋳物師は、椚・窪・志比堺の三つの村に居住し、なべや釜を盛んに製造していた。椚の中根には、「なべ売り坂」と呼ばれる坂があり、なべや釜を並べた商店が軒を連ねていたといわれている。福井の鋳物業は、明治の中ごろから機械鋳物に変わり、旧来のなべや釜類は、時世の移り変わりとともに衰退した。現在では、工作機械の部品等の産業機械鋳造品の製造に変わっている。
@吉田郡芝原 松岡鋳物師
A今立郡 五分市の鋳物師
B南条郡 島村の鋳物師
C南条郡 北杣山村の鋳物師
D敦賀郡 松原の鋳物師
E遠敷郡 金屋村の鋳物師
福井県の鋳物産地

(8) 伝統工芸品の全国流通
 越前鎌が全国に普及し、今日の名声を博したのは「漆掻き人」の存在である。漆掻き人は、福井県人が全国の80〜90%を占め、江戸時代から大正時代にかけて東北、関東、中部地方を中心に全国各地を巡って漆を採取していた。この漆掻きの人たちは、漆の木を買うとき、お金の一部として越前鎌を農家に渡していた。その越前鎌の切れ味がよく、評判が高まり、四国・中国・九州一円と刃物産地のある地区、漆の木の無い北海道などを除いて普及していったのである。
 鎌行商や漆掻き出稼ぎの経験は、大正時代から昭和のはじめにかけての蚕種行商にも生かされた。行商人は、今立地方に集中していて、奥越地方をはじめ、石川・富山県から新潟県、さらには関東・甲信地方にまで及んだ。
 その他、漆やテグス・塩の行商などは近隣県などに及び、行商を通じて九頭竜川流域の特産品が全国にゆきわたり、それらが一つの文化として伝えられたのである。


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