九頭竜川流域誌


5.3 代表的な名所・旧跡等

(1) 足羽山(福井市)
 足羽山(標高117m)とその山麓一帯は、4世紀後半から5世紀にかけて足羽山古墳群が形成された独立丘陵である。また、足羽山北麓は古代から笏谷石の産地で、「延喜式」に記載されている足羽駅もこの付近とされている。山頂には、「越の大王」として大和朝廷の皇位を継承した継体天皇の石像が三国の方向を向いて立っている。
 足羽山は、柴田勝家が城下町を建設するにあたって、一乗谷にあった愛宕大権現をこの地に移したため、それ以後「愛宕山」と呼ばれるようになったが、足羽山の呼称もこの頃から使用されたようである。
 足羽山は明治42年(1909)、大正天皇が皇太子のときに福井へ行啓され、それを機に足羽山公園として整備された。第二次世界大戦後にはソメイヨシノが全山に植えられ、春ともなれば桜が全山を覆う名所となった。また、足羽山には、県内の考古資料や福井藩主松平家伝来の資料が収蔵されている福井市立郷土博物館や福井市自然史博物館などがある。
(2) 一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)
 一乗谷朝倉氏遺跡は、堀や土塁で囲まれた義景の館跡を中心に、石組や配石を重要視した室町時代末期の庭園様式を伝える湯殿跡・諏訪館跡・南陽寺跡の3庭園が見学ポイントとなっている。平成7年(1995)には、武家屋敷と町屋の一部が復原され、付近を散策すると朝倉時代にタイムスリップできる。
 朝倉義景館跡の正面に建つ唐門は、朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門である。門の上部には、朝倉家の三ツ木瓜と豊臣家の五三の桐の紋が刻まれている。現在のものは、江戸時代中期に建てられたものである。
唐門 復原された武家屋敷と町屋
唐  門 復原された武家屋敷と町屋
(3) 東尋坊(三国町)
 東尋坊は、高さ70m、長さ約1kmに及ぶ輝石安山岩のすばらしい柱状節理で、国の名勝・天然記念物に指定されている。
 断崖の先端が海中に没するあたりには、いたる所に奇岩・奇礁が連なり、舟付岩・千畳敷・ライオン岩など、名前そのものの自然の造形美が目を楽しませてくれる。
 東尋坊の名前の由来には平泉寺僧の伝説もあるが、西風という意味のあるトーセンボから出たという説もある。
東尋坊
東尋坊
(4) 味真野苑(武生市)
 味真野は、武生市東部に流れる文室川が形成した扇状地を中心とした標高30〜50mの微高地にある。扇状地の各部には湧水群があり、水の味が良いので「味うまし野」となり、それが転化したともいわれている。
 この湧水地帯は、早くから開発され古代から大和との関係の深い所で、継体天皇に関する伝説が多く今に伝えられており、謡曲「花筺」の舞台ともなっている。
 味真野は、奈良時代の天平12年(740)頃に、狭野茅上娘子との仲を裂かれた中臣朝臣宅守が流刑された地であり、2人の愛を和歌に託した相聞歌を石に刻んだ歌碑が苑内に建ち並んでいる。
花筺公園 味真野苑の荘聞歌碑
花筺公園 味真野苑の荘聞歌碑
(5) 西山公園(鯖江市)
 西山公園は、4月下旬〜5月初旬にかけて咲くツツジの名所として有名である。この公園は、約130年前に鯖江藩7代藩主の間部詮勝が、領民との交流を楽しむために茶園や梅園を設け、同時に憩いの場所をつくり「嚮陽渓」と名付けたのが始まりだといわれている。
 現在、4万3千株にものぼるさまざまなツツジが植えられている。公園の上方には日本庭園が造られ、遊歩道をつたって長泉寺古墳群につながってる。
(6) 足羽川堤防の桜(福井市)
 足羽川左岸堤防約2kmにわたって、昭和27〜28年に植えられた約700本のソメイヨシノが、4月初めには美しい花をつける。この足羽川堤防の桜は足羽山の桜と対で「足羽川・足羽山公園」として、「全国桜の名所100選」にも選ばれた福井県を代表する桜の名所である。(※日本の百選データ・ブック 大蔵省印刷局 p.125)
 福井市では、昭和27年(1952)に開かれた博覧会を機会に、商工会議所・観光協会、そして福井市が協力して植樹美化運動を進めることとなり、街路に多くの種類の街路樹を植えて特徴のある街にしようと、市民から浄財を募ってプラタナス・アカシヤ・ヤナギ・イチョウ・コブシ・トチノキ・サクラなど17種の苗木を買い求め、各街路で植樹祭を行い整備を進めた。その一環として、足羽川の堤防に桜木が昭和28年(1953)3月頃から順次に植えられていった。その内、木田橋から花月橋に至る間の桜が見事に成長したものである。(※私の春秋 熊谷太三郎自伝 p.220)
足羽川堤防の桜
足羽川堤防の桜
(7) 弁天桜(勝山市)
 九頭竜川右岸堤防上、勝山橋を挟んで、その上下流にかけて1.5kmに及ぶ桜並木は、弁天桜と呼ばれる県下に知られた桜の名所である。
 大正末期に当時の勝山町長が桜木を100本ほど植えたのが始まりで、これを現在のようにしたのが市橋定吉である。市橋は昭和の初めに名古屋から取り寄せた苗木500本を植え、その後も自分の畠で苗を育てては植え続けた。植えたあとで、油粕をまいたりして丹誠をこめて育てた。
 弁天堤で花見が行われるようになったのは、昭和8年(1933)頃からである。
 現在は、足羽川堤防や弁天堤のように堤防肩に植樹すると、台風などによって木が倒れたり、風で揺さぶられて根が露出したとき堤防も崩れるため、堤防の裏に盛土して木根が堤体に影響しないように植樹するよう、建設省の「河岸等の植樹基準」に定められている。
弁天堤の桜
弁天堤の桜
図1.3.22 名所・旧跡および古社等の位置
図1.3.22 名所・旧跡および古社等の位置


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