九頭竜川流域誌


5.4 代表的な古社寺等

(1) 白山平泉寺(勝山市)
 越前は、加賀・奥能登とともに白山神社の多いところである。白山への登拝の基地である3馬場のひとつの越前馬場の平泉寺は、養老年間(717〜724)に泰澄大師が創建されたと伝えられる。室町時代には、白山神社の別当寺として全盛を極めたが、戦国末期の一向一揆の攻撃によって全山焼失して衰えた。その後、豊臣・徳川氏の時代に再興が図られたが、昔日の隆盛を取り戻すまでには至らなかった。
白山平泉寺
白山平泉寺
明治時代になって神仏分離令が発せられたとき、廃仏毀釈により白山神社のみ残された。
 かつては48社36堂の建物があったといわれているが、現在は平泉寺白山神社の拝殿、本殿など7つの社殿が建っている。境内は青苔で覆われ、拝殿までは苔提林と呼ばれる石畳の参道が続く。この参道は、約1000年前の舗装路ともいわれ、日本の道百選にも選ばれている。また、国の名勝である旧玄成院庭園がある。
(2) 永平寺(永平寺町)
 
永平寺
永平寺
曹洞宗大本山永平寺は、寛元2年(1244)に領主波多野義重が道元禅師を招いて、座禅修行の道場として建立したものである。この寺は、志比の荘内市野々の東、傘松峰の西に建てられ傘松峰大仏寺と命名されたが、寛元4年(1246)に永平寺と改称された。
 現在は、仏殿や法堂などの七堂伽藍をはじめ、70余りの堂宇が建ち並び、その中で雲水たちが厳しい修行に励んでいる。
(3) 吉峰寺(上志比村)
 吉峰寺は、道元禅師が大本山永平寺開山以前に修業道場として寛元元年(1243)に創建した曹洞宗発祥の古寺である。現在も、永平寺につながる尾根づたいの山道が残されている。
 吉峰寺の境内には、法堂、開山堂、観音堂などがあり、荘厳な佇まいに当時の修業道場の面影が偲ばれる。
(4) 宝慶寺(大野市)
 宝慶寺の開山は、道元を慕って安貞2年(1228)に来朝した寂円である。寂円は永平寺に住んだが、道元没後の弘長元年(1261)に大野郡小山荘木本郷に入り、18年間も修行を重ねたといわれている。
 
宝慶寺
宝慶寺
正安元年(1299)、小山庄の地頭であった伊自良知成(沙弥知円)は寂円に帰依し、北条時頼などの菩提を弔うため寺領を寄進した。永平寺に次いで曹洞宗の第二道場として栄えたが、天正年間(1573〜1584)の兵乱によって灰燼と化してしまった。その後、松平忠直が福井藩主となったとき50石を寄進した。
 山門は楼門形式で、両脇に回廊を持ち鐘楼がある。本堂・開山堂・僧堂・大庫院がある。
(5) 吉崎御坊(金津町)
 室町時代中期に浄土真宗中興の祖とよばれる蓮如上人が、布教の拠点を置いたところが吉崎地区であり、小高い丘の上には吉崎御坊とよばれる堂宇があり、多くの信者が訪れた。吉崎には、多屋とよばれる宿坊が100余戸も建ち、門前町として栄えた。しかし、蓮如が京都へ去った後、一向一揆の争乱の時に堂宇がことごとく焼失してしまった。
 江戸時代に入って、吉崎山麓に東西両本願寺の別院が建立された。それぞれに吉崎寺、願慶寺の末寺があり、現在はこの4つを総称して吉崎御坊とよんでいる。
 福井県の浄土真宗の寺院は約900あり、曹洞宗の寺院約300を大きく上回っている。
(6) 滝谷寺(三国町)
 
滝谷寺(三国町)
滝谷寺
滝谷寺は真言宗智山派の寺で、永徳年間(1489〜1492)に紀州根来山の学僧叡憲の開基と伝えられ、朝倉氏や柴田勝家といった武将や松平・有馬氏などの国主の厚い信仰を集めて祈願道場として栄えた名刹である。
 境内には、本堂・観音堂・聖天堂・総門・山門・石造りの開山堂など、古色蒼然とした堂宇が建ち並んでいる。なかでも、鎮守堂は室町末期に建立されてもので、正面に千鳥破風をつけた三間社流造りで、屋根はこけら葺きの国指定文化財となっている。
 滝谷寺には、国の名勝指定を受けた山水庭園や重要文化財の寺宝類が多く残されている。
(7) 三国神社(三国町)
 
三国神社
三国神社
三国神社は、継体天皇と大山昨命(山王大権現)が併祀されている。社殿は天保10年(1839)に完成したが、明治4年(1871)に山王宮が桜谷神社と改称され、そのときに仮遷座中の興ヶ岡水門宮の祭神である継体天皇を合祀し、明治18年(1885)に三国神社と改称された。
 大鳥居をくぐり笏谷石の階段を上ると、明治3年(1870)に創建された楼門があり、福井藩17代藩主松平茂昭書の光華閣の額が掲げられている。
 社殿は、正面唐破風の下に懸魚の鳳凰、母屋の桐花、紅梁上の各所に施されている猿や獏の木彫などがあり、彫刻は江戸時代末期の彫刻師志摩実時の作といわれている。
 毎年5月に行われる例祭は三国祭りとも称され、北陸三大祭りの一つとされ、大きな人形を乗せた山車が湊町中を練り歩き大いに賑わう。
(8) 足羽神社(福井市)
 
足羽神社
足羽神社
足羽山にある足羽神社は、継体天皇と座摩神5柱(生井神・福井神・綱長井神・阿須波神・波比伎神)を主祭神とする古社で、社名は「延喜式」にみられる。
 社伝によれば、継体天皇が男大迹王と呼ばれていたとき、現在地に斎場をト占して座摩神を祀り、やがて皇嗣となって大和に上るとき、男大迹王自らの活霊をも合祀して皇女である馬来田皇女に神事を託したといわれている。現在の社家馬来田氏は、その後裔と伝えられている。
 境内には、継体天皇の碑のほか、九頭竜川改修修治碑などが建てられている。
(9) 大安禅寺(福井市)
 大安禅寺は、日野川が九頭竜川に合流する左岸にあり、万治2年(1659)に福井藩4代藩主松平光通が大愚宗築を招いて開山し創建したもので、歴代藩主の菩提寺とした名刹である。境内背後の山頂近くには、千畳敷とよばれる歴代藩主の廟所がある。
 この地は、奈良時代に泰澄大師が創建した竜王山田谷寺38坊のあった所である。明治維新の際に縮小されたが、方丈・山門・庫裡・開山堂・鐘堂などは、いずれも万治2年の創建当時のものである。
大安禅寺 千畳敷
大安禅寺 千畳敷
(10) 養浩館(福井市)
 
養浩館
養浩館
養浩館は、福井3代藩主松平忠昌が小堀遠州に設計を依頼して庭を造ったとともいわれているが、福井7代藩主松平吉品が元禄年間(1688〜1703)に大改修を行った。このとき、茶師山田宗偏が設計したといわれる数寄屋風書院をはじめ茶室なども建て替えられ、庭も整備された。江戸時代は「御泉水」と称されていて、泉水が縁側近くまで迫り、ちょうど泉水全体が庭のようになっていた。
 昭和20年(1945)の空襲で焼失したが、その後再建され昭和57年(1982)に国の名勝に指定された。築山・池などの配置は、江戸中期の代表的庭園の面影を今に伝えている。
(11) 西光寺(福井市)
 西光寺は、延徳元年(1489)に一乗谷に城を構えた朝倉貞景の発願によって、内ヶ国(現在の福井市次郎丸町)に創建された。天台真盛宗宗祖の貞盛の開山によるもので、山号を光明山と称している。
 天正4年(1576)、柴田勝家が現在地に移転して、自らの菩提寺と定めた。戦国のヒロインであるお市の方は、夫の勝家とともにこの地に眠っている。
西光寺にある柴田勝家の墓 西光寺にある柴田勝家の墓
西光寺にある柴田勝家の墓
(12) 総社(武生市)
 古代において各国の国府には、その国内の諸社の神々を祀り、これを総社として国司が崇拝していた。武生の総社は、越前国の総社で、国府のあった府中に置かれたものである。
 天平11年(739)、聖武天皇が諸国に勅令を出して大已貴命を各国の総社に合祀することとなった。盛時には社領が11haあり、社家が数10人といわれた。
 応仁の乱のときに社殿が焼失し、一時衰退したが、朝倉孝景や織田信長などの保護を受けて再興した。また、前田利家が朝倉時代に府中奉行所を拡張・改築して府中城としたとき、二の丸にあった総社を兵火に焼かれて荒廃していた国分寺境内に移して社殿を造営したといわれている。
 慶長12年(1607)、本多富正が社領30石を寄進し、以降歴代の保護によって武生の氏神として人々に親しまれてきた。現在も9月にはお総社まつりが行われ、近郊から多くの人たちが訪れる。境内には、国府跡の碑が建っている。
 総社の北には、道路を挟んで大正期に建立された国分寺がある。
総社 国分寺
総社 国分寺
(13) 誠照寺(鯖江市)
 誠照寺は、越前四箇本山の一つである浄土真宗誠照寺派の総本山である。寺内最古の建物である四脚門には、左甚五郎作と伝えられる駆け出しの龍の彫刻が施されている。その龍があまりにも精巧で緻密なため、鳥も恐れて近寄れないことから「鳥不棲門」とか、一日中見ていても飽きないことから「北陸日暮らしの門」とも呼ばれている。
(14) 大滝神社(今立町)
 
大滝神社
大滝神社
大滝神社は、明治以前まで大滝児大権現または小白山大明神と呼ばれ、国常立尊・イザナギ尊を祭神、十一面観音を本地仏とし、別当大滝寺が支配する神仏習合であった。
 推古天皇の頃(600年前後)に大伴連の創建と伝えられ、養老3年(719)泰澄大師が七堂伽藍を建立して大滝児大権現と称したとされている。中世には平泉寺の末寺となり、朝倉氏などの保護を受けて広大な寺域に48の坊舎を持ち、多くの衆徒を抱えていた。しかし、天正9年(1581)、滝川一益の兵火によって衰退していった。
 本殿・拝殿は、天保10年(1839)の再建で、二つの高さが異なる建物を複雑な形をした屋根で結び、精微な彫刻が周りを覆い、華麗にして荘厳なただずまいをみせている。中央の本殿右には、紙祖神の川上御前を祀る岡太神社がある。
(15) 剱神社(織田町)
 
剱神社
剱神社
剱神社は、式内社で越前二ノ宮といわれている。祭神は、素戔鳴尊・気比大神・忍熊王で、この地の賊を討伐した仲哀天皇第3皇子忍熊王が剣を祀ったとの伝説がある。国宝の梵鐘の銘から推測して、奈良時代にはその存在が知られていた。平安末期から鎌倉時代にかけての盛時には、社家25家・寺坊36坊19院・社領3,800町歩(約3,768ha)であったと伝えられている。室町時代には斯波氏、そして朝倉氏から保護を受けた。織田信長の先祖は、斯波氏に仕えて織田庄の荘官として、15世紀頃までこの地に住まいしていた。織田常昌が尾張守護代に任じられたとき、尾張に移ったようである。本殿は、柿葺の三間社入母屋造で、正面に千鳥破風が前方に突きだし、その下に唐破風をもつ向拝が設けられ、江戸初期の秀麗な姿をとどめている。
(16) 丸岡城(丸岡町)
 丸岡城は天正4年(1576)に柴田勝豊が築いたもので、別名“霞ヶ城”とも呼ばれる。これは、勝豊が城を築いたとき人柱となった片目のおしずという女が、城守りの大蛇となり、戦いの時には霞を吹き出して敵の目をくらまし、城を守ったという伝説に由来している。
 
丸岡城
丸岡城
天守はわが国に残る天守のなかで最も古い遺構であり、国の重要文化財に指定されている。初層の大きな入母屋屋根の上に小さな物見櫓を乗せた望楼式の外観は、天守の発生過程を知る上で、貴重なものである。また、笏谷石の瓦が葺かれていることや、1階の柱は根元を土の中に埋めた堀立柱であったことも、天守の大きな特色である。
 福井地震で倒壊し、昭和26年(1951)から4年かけて復元された。城跡は公園化され、遠近からの観光客で賑わう。石階段わきの石碑には、本多作左衛門の陣中にありながら家族への思いを短く表した“一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ”という文字が刻まれている。
(17) 大野城(大野市)
 
大野城
大野城
大野城は、織田信長の宿老である金森長近が天正4年(1576)から4年の歳月を費やして完成させたものである。江戸時代には、土井氏が在城していた。幕末に土井利忠が大野藩主となると、藩政改革を積極的に進め、藩校の明倫館や洋学館を建て、人材育成に努めるとともに、洋式帆船の大野丸を建造して蝦夷地との交易を行った。
 天守閣は安永4年(1775)に焼失したが、昭和43年(1968)に古い絵図面をもとに復元された。城跡には、天守石垣や堀・土塁などが一部保存され、亀山公園として整備されている。


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