九頭竜川流域誌


1.2 縄文時代

 縄文草創期にあたる約1万2千年前のものとしては、昭和初年頃の用水工事の際に発見された永平寺町鳴鹿山鹿遺跡から有舌尖頭器を主体とした石器群が埋納された状態で出土している。この有舌尖頭器は、槍先として用いられたとされているもので、異なる形状から東日本や中部地方と深い関わりがあったことを物語っている。鳴鹿山鹿遺跡は、九頭竜川中流右岸の低位段丘部に位置し、福井平野の扇状地の扇頂部に立地している。
 草創期に続く縄文時代は、早期・前期・中期・後期・晩期の5期に通常分けられる。このうち、早期の遺跡は九頭竜川の河岸段丘や扇状地に集中して存在している。前期になると九頭竜川筋から足羽川の周辺にも見られるようになり、かなり分散するようになった。中期は縄文時代の遺跡数の約半分を占め、全域に分散して見られるようになる。後期・晩期になると遺跡数が激減するが、河川の自然堤防上に立地するようになり、かなり川辺近くで生活が営まれるようになってきたことが分かる。
 縄文早期の遺跡としては、勝山市古宮遺跡・破入遺跡・三室遺跡、金津町桑野遺跡、福井市北堀遺跡などが著名である。


鳴鹿山鹿遺跡場所と有舌尖頭器(永平寺町)
鳴鹿山鹿遺跡場所と有舌尖頭器(永平寺町)

 縄文時代早期後半から前期にかけては、「縄文海進」と呼ばれる海水面上昇の時期があり、福井平野一帯が「古九頭竜川湖湾」と呼ばれる内湾を形成し、その岸辺に沿って福井市北堀遺跡(早期・前期)や深坂小縄遺跡(前期)が立地していた。その後、古九頭竜川湖湾は、九頭竜川・日野川・足羽川からの流出土砂によって埋められていき、沖積平野が形成されて徐々に縮小していったが、岸辺では芦原町舟津貝塚などに見られるように、水の近くで生活が営まれるようになった。
 縄文前期の遺跡は、福井市三十八社遺跡や前出の遺跡などが著名であり、出土した土器は近畿系を中心に瀬戸内系、中部系、関東系のものも見られ、東西文化の交流の姿をよく示している。
 縄文時代中期を迎えると広範囲に遺跡が広がる。その代表的な遺跡は、福井市浜島遺跡、朝日町栃川遺跡、南条町上平吹遺跡、池田町常安遺跡、三国町北杉谷遺跡などである。なかでも、和泉村小谷堂遺跡からは竪穴式住居跡が検出され、角野前坂遺跡からも20m四方の範囲に5棟の住居跡が確認された。また、大野市右近次郎遺跡からは、13棟と福井県内最大級の住居跡が発見された。北杉谷遺跡や芦原町舟津・井江葭遺跡の3遺跡は、加越台地南縁に形成された主淡貝塚を伴う集落跡であり、ヤマトシジミを主として、イノシシ・シカ・魚骨などとともに、磨製石斧、石皿、磨石、土器などが出土している。
舟津貝塚跡(芦原町)
舟津貝塚跡(芦原町)

このような遺跡から古代人は、石を用いて漁労や狩猟といった採集生活を営んでいた様子を窺い知ることができる。中期末葉になると、近畿系の土器群が影をひそめ、北陸地方特有の「大杉谷式」と呼ばれる土器群に絞り込まれるようになる。
 後期になると遺跡数が減少してくるが、福井市上河北遺跡、勝山市三室遺跡、和泉村後野遺跡などが主要な遺跡である。この時期は、再度近畿地方からの影響が強くなり、近畿系の土器が多くを占めるようになる。
 晩期の代表的な遺跡は、福井市林遺跡、勝山市鹿谷本郷遺跡、大野市佐開遺跡などである。この時期の土器には、東日本の土器文化の影響を受けたものも発見されている。


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