越の国の古代史で最大のスクープは、5世紀末から6世紀初頭に男大迹王が大和の大伴金村たちに迎えられ、即位して継体天皇となったことである。
男大迹王は、近江国高島郡三尾に別邸を持って住んでいた14代応神天皇から5代目の子孫である彦主人王が、11代垂仁天皇から7代目の子孫で三国の坂中井に住む振媛を妻に迎えて誕生した皇子である。父である彦主人王は、男大迹王が幼少のときに亡くなった。そのため、母である振媛は「ここは故郷から遠く親類縁者もない。私一人では男大迹王を十分養育できない。親のいる高向に帰って育てる。」といって、幼い男大迹王を連れて故郷の高向宮(丸岡町の旧高椋村)に帰って養育した。このことは、「日本書紀」や「上宮記」に記されている。
振媛が選んだ高向は、九頭竜川に面していて、少し下れば大きな湖沼に出られ、さらに三国で日本海に至る。そして、水上交通によって敦賀はもちろんのこと九州や朝鮮半島などの遠隔地とも往来できる。背後の丘陵地にある古墳からは、朝鮮半島で流行した鍍金や鍍銀の冠が出土しているように、大陸文化を取り入れた先進地域でもあった。また、暴れ川である九頭竜川は、肥沃な土地を造成し、水稲栽培にも適していたので、生活するにも最適の地であったのだろうと想像される。そして、男大迹王が成長した後は、足羽川下流の豪族三尾角折君妹稚子媛を娶り、福井平野をなお一層豊穣な地域にするために、さらに治水に力を注いだ。また、尾張や近江の豪族とも手を結び、徐々に力をつけていったのである。
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