九頭竜川流域誌


1.5 奈良時代
1.5.1 律令時代の越前国

 律令国家が成立したころ、このあたりから東北地方までの日本海側を「高志(越)国」と呼んでいたが、この国をやがて前・中・後の三つに分け、大和に一番近い国を越前とした。「越前国」が誕生したのは、「日本書紀」の持統天皇6年(692)9月癸丑条に「越前国司が白蛾を献じた」とあり、少なくともこれ以前であると考えられる。この越前国には、後に分立する能登国・加賀国も含まれていた。ちなみに、能登国が越前国より分離したのは養老2年(718)5月と早い(「続日本紀」)が、加賀国が分離したのは平安時代の弘仁14年(823)2月(「類聚三代格」)のことである。なお、律令制国司として最初にその名が知られるのは、和銅元年(708)3月に国守に任じられた高志連村君である(「続日本紀」)。
 古代律令期には、越前国府が置かれていて、その官衙遺跡が武生市高森遺跡である。これまでの調査では、200m四方の規模を有し、39棟の掘立柱建物群、9棟の竪穴式住居群などが検出されている。この官衙は7〜12世紀の間存続した。武生は、古来から良港として栄えてきた三国と敦賀の中間に位置し、北陸道の重要な地位を保持していたのである。
 一方、古代寺院としては、福井市篠尾廃寺跡(7〜10世紀)、武生市深草廃寺跡(7世紀)、野々宮廃寺跡(7〜8世紀)、大虫廃寺跡(7〜8世紀)などの一部が調査されている。これらの寺院は、6世紀半ばに仏教が公伝され、7世紀半ば以降になると鎮護国家の利益を得るための仏教の優遇・興隆政策が図られ、有力氏族によって氏寺が建立されたものである。(※図説福井県史 p.48)

越府国府趾の碑 (武生市) 国分寺跡の碑 (武生市)
越府国府趾の碑(武生市) 国分寺跡の碑(武生市)


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