九頭竜川流域誌


1.5.3 東大寺荘園

 東大寺は、天平15年(743)聖武天皇が東大寺大仏の造立を発願してから6年後の天平勝宝元年(749)5月に、東大寺寺家野占使の僧平栄や造東大寺司史生の生江臣東人を越前・越中に墾田地を求めて下向させた。このころ、造立途中の大仏の完成に目途がつき、その造立と維持費用をまかなうため、これらの地に荘園を占定しようと足羽郡の豪族である生江氏の出身で、造東大寺司の職員となっていた東人を案内人として、国司と一緒になって占定作業が進められたのである。
 東大寺領の荘園は、郡司クラスの有力者から土地の寄進を受けたり、用地買収や土地交換などを行って成立させていった。坂井郡にあった東大寺領桑原荘(現金津・丸岡町)に関する文書によると、天平勝宝7年(755)に東大寺が都に住む貴族から土地100町を銭180貫文で買収して成立させたことが記されている。その他、足羽郡糞置荘・栗川荘・鴫野荘・道守荘(のちの道守荘の北部分)(いずれも現福井市)、丹生郡椿原荘(現清水町)、坂井郡田宮荘(現春江町)・子見荘(現坂井町)などの地を占定したものと考えられている。
 東大寺荘園は、租を免じられるなど国からは優遇され、さらには国や郡司など在地の有力者が労働力の調達や編成など円滑な経営にも関与し、安定した荘園経営に進んで協力したこともあって、開発がスムースに進展したのである。
 荘園の耕作は、近隣の農民などに土地を貸し与え、借用料を支払わせる「賃租」という土地の貸借形態がとられていた。この「賃租」による貸与料が荘園経営の主な収入であったと考えられている。
 荘園からの収穫物は、九頭竜川・日野川などの水運を利用して三国湊に集められ、さらに海路を敦賀に至り、そこから陸路を愛発関を越えて近江国の琵琶湖北岸の塩津・海津を経て、琵琶湖・宇治川・木津川は水運を利用し、木津から平城の都に運ばれた。
 東大寺の開田に関わる8世紀の古代荘園絵図は、20数面現存していて、その多くが近江国、越前国、越中国である。このことは、東大寺の勢力が近江国から北陸地方に伸びていたことを証明するものである。越前国では、坂井郡・足羽郡・丹生郡の各地で東大寺領の開田・占定が進められていたのである。越前関係の絵図は、正倉院に3面、奈良国立博物館に1面保管されている。正倉院保管の2面は糞置荘開田図で、天平宝字3年(759)12月3日と天平神護2年(766)10月21日に同じ地域を描いた絵図である。正倉院保管の残り1面は、道守荘開田図で天平神護2年(766)10月21日に作成されたものである。この絵図には、現在の足羽川が生江川、日野川は味間川、足羽山は加夫田山などと記されている。糞置荘および道守荘は、ほぼその地域を正確に比定できる。
 東大寺荘園は、律令国家の衰退と耕作を請負う専属的農民の欠如により、10世紀には荒廃していった。

糞置荘比定航空写真1975年撮影(※図説福井県史p39) 足羽郡糞置荘開田絵図(天平宝字3年12月3日正倉院宝物)
糞置荘比定航空写真 1975年撮影(※図説福井県史p39) 足羽郡糞置荘開田絵図(天平宝字3年12月3日正倉院宝物)
足羽郡道守荘開田絵図(天平神護2年10月21日正倉院宝物) 比定地航空写真1975年撮影
足羽郡道守荘開田絵図(天平神護2年10月21日正倉院宝物) 比定地航空写真1975年撮影


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