九頭竜川流域誌


2. 中世
2.1 鎌倉時代
2.1.1 越前における源平争乱

 平安時代末期の越前は、平氏の支配が強く及んでいて、仁安2年(1167)頃より平重盛・教盛が知行国司となっていた。治承4年(1180)、源頼朝や木曾義仲が平氏打倒の兵を挙げたが、その翌年の養和元年(1181)7月から8月にかけて、越中・加賀の国人たちが越前に侵入し、越前国府に下向していた平通盛と戦い、大野・坂北の両郡を焼いている。同年9月になると越前の在地勢力も反平氏の行動をとるようになり、9月6日には河合斎藤氏の一族である平泉寺斉明と稲津実澄が平氏を裏切ったため、通盛軍は敗れて敦賀へ退き、越前は在地の反平氏勢力の支配下に置かれた。

燧城跡(今庄町)
燧城跡(今庄町)

 その後、平氏は寿永2年(1183)4月に維盛・通盛らの北陸道追討軍を下向させたため、反平氏軍は南条郡燧城にたてこもって平氏を阻止しようと林・竹田・斎藤・疋田の武士団と平泉寺衆徒たちが抵抗したが、城中の平泉寺斉明が平氏方についたため、城を捨てて加賀国に退いた。平氏は軍を三手に分けて加賀国を攻めたが、5月に加賀・能登国境の倶利伽羅峠で木曾義仲軍との戦いに敗れ総退却した。義仲は敗走する平氏軍を追って京に入り、一時都を支配するが、元暦元年(1184)1月に源義経と戦い、琵琶湖の畔の粟津で戦死する。
 平氏を滅ぼした源頼朝は、北陸地方の武士団や平泉寺の衆徒が義仲に従って平氏打倒に大きな役割を果たしたので、これらに対して強い警戒心を持ってのぞみ、武士の統制や国衙を支配するために鎌倉殿勧農使比企朝宗を派遣した。そして、すぐに北条時政が支配権を行使するようになり、代官を大野郡や丹生郡に入部させている。



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