九頭竜川流域誌


2.2 南北朝時代
2.2.1 南北朝の動乱と越前

 後醍醐天皇は、鎌倉幕府が元弘3年(1333)に滅亡した後、天皇政治の復活をめざして足利尊氏と対立し、京都で破れたため皇子を派遣して地方に南朝方の拠点をつくり、その力によって尊氏を包囲しようと考えた。その拠点の一つに越前が選ばれ、建武3年(1336)10月に恒良・尊良両親王は新田義貞らを従えて敦賀に下向し、金ヶ崎城に入った。この金ヶ崎城は翌4年3月に落城したが、寸前に城から脱出していた新田義貞は、暦応元年(1338)には多くの軍勢を集めて反撃に移り、尊氏方の守護斯波高経を包囲した。その後、総大将の新田義貞は閏7月の藤島の戦いで不覚にも戦死するが、それでも義貞の弟の脇屋義助を総大将として再び勢力を盛り返し、暦応2年から4年(1341)にかけて北朝方の斯波高経軍と越前各地で戦い、一進一退を繰り返していた。しかし斯波高経軍は、能登国の武士などの来援を得て暦応3年(1340)8月に黒丸城を奪回し、翌4年6月には南条郡鯖波・杣山を攻略してほぼ南朝方を排除した。斯波氏は、まず高経が建武政権期に越前の守護になっており、以後室町時代には代々越前国の守護職を務めた。

灯明寺の新田塚と碑(福井市) 灯明寺の新田塚と碑(福井市) 灯明寺の新田塚と碑(福井市)
灯明寺の新田塚と碑(福井市)


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