九頭竜川流域誌


2.4.2 関ヶ原合戦までの領主

 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を明智光秀が討ち、それを山崎の戦いにて秀吉が勝利したため、織田信長の有力武将であった柴田勝家は秀吉に遅れをとり、信長の後継者擁立でも秀吉の主張に屈してしまった。しかし、勝家は信長の妹で浅井長政に嫁いだことのあるお市の方と岐阜にて祝言を挙げ、共に北ノ庄へ帰った。やがて勝家は滝川一益と結び、信長の子である信孝とともに秀吉を討とうとしたが、一益が伊勢で敗れ、勝家も近江湖北の賤ヶ岳の戦いで敗退し、ついにはお市の方とともに北ノ庄城で火炎に身を投じて果ててしまった。
 勝利をおさめた秀吉は、越前国の大半を丹羽長秀に与えたが、長秀が3年の短い期間で亡くなったため、堀秀政が跡を継ぎ天正18年(1590)小田原城征伐で没するまで続いた。その後は、堀秀治、小早川秀秋、青木一矩と続くが、関ケ原の合戦後には徳川家康の次男である結城秀康が封じられた。



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