九頭竜川流域誌


3. 近世
3.1 福井藩の成立

 慶長5年(1600)9月、関ヶ原において徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍とが激しく戦い、東軍が勝利をおさめたことにより徳川家康が天下を握った。その結果、越前68万石は結城秀康に与えられ、福井藩が成立した。徳川一門と譜代の大名としては、第1位の領地高であり、加賀前田の100万石、薩摩島津の70万石に次ぐものであった。この石高は、慶長3年(1598)の太閤検地に基づくものであった。
 結城秀康は、慶長6年(1601)2月に北ノ庄城受け取りのために本多富正と加藤好寛を出発させたが、富正は3月には新開や用水、大工扶持米などについて代官に指示し、経営のための基礎固めを行った。7月28日に秀康は北ノ庄に入り、まず北ノ庄城を改築するとともに城下町を整備して、領国経営を始めた。秀康は、城郭を柴田勝家の時代より北に移し、寺院も結城から移転させ、職人衆や商人には地子を免除して来住を奨励した。また、国境の警備にも力を注ぎ、支城制を採用して、重臣のうち本多富正に府中(現武生市)、土屋昌春を大野、今村之信を丸岡、多賀谷三経を柿原(現金津町)、山川朝貞を花谷(現永平寺町)、清水孝正を津内(現敦賀市)、林定正を勝山、加藤康寛を木本(現大野市)に配置した。
 支城制は、2代藩主忠直の時代まで受け継がれるが、元和元年(1615)の一国一城令により敦賀城と勝山城が破却された他は存続を許され、やがて城下町として発展した。

(※角川日本地名大辞典 18 福井県 p.42)


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