九頭竜川流域誌


3.2 福井藩の推移

 慶長12年(1607)、秀康が死去したため忠直が継いだが、慶長17年(1612)に久世騒動と呼ばれる御家騒動が起こった。これは、本多富正方と今村掃部方とに家中が二分され、争いにまで発展したが、忠直はこれを処理できず幕府の裁許となり、富正方の勝利に帰す裁断が幕府によって下された。このことが伏線となって、大坂夏の陣(1615)のあと、忠直は不行跡や江戸への参勤を怠ったことなどを理由に、元和9年(1623)3月に豊後荻原に配流された。忠直が処分された後、世子の仙千代(光長)が襲封した。
 翌寛永元年(1624)4月、忠直の弟で越後高田を領していた忠昌が50万5千石で福井藩に封じられた。一方、忠直の世子光長は、忠昌のあとの越後高田25万石に封じられた。この時、越前敦賀郡は小浜藩の京極氏に与えられ、大野・勝山・木本を忠昌の弟達に、そして丸岡を本多氏が領することとなった。丸岡藩は、元禄8年(1695)に外様大名の有馬氏が藩主となった。また、天和2年(1682)には大野に譜代大名の土井氏、元禄4年(1681)には勝山に小笠原氏が封じられ、各々廃藩置県に至るまで続いた。
 福井藩は、貞享3年(1686)に25万石と半減されたが、享保6年(1721)松岡藩を合わせて30万石、さらに文政元年(1818)に2万石加増されて32万石となった。この間に越前国内には、広大な幕府領が成立するとともに、紀州家の分家の松平2氏の領地が成立し、鯖江には間部氏が入り、大坂城代の土岐氏、美濃郡上藩、三河西尾藩の領地が設けられ、旗本の諸領もわずかながら設定され、複雑な所領構図となった。18世紀なかばの越前には、幕府領も含めると16人もの領主がいたことになる。こうした状況は、多少の変化が生じるものの、幕末まで大きく変わることもなかった。(※図説福井県史 p.114)



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