九頭竜川流域誌


3.3 城下町の形成

 領国経営の中心として城下町が成立し、支配の象徴として偉容を誇る天守閣をはじめとする城郭も整備された。武士を城下町に集住させ、それらの日常生活をまかなう町人(商人・職人)を地子や諸役を免除して城下町に住まわせ、侍町や町人町、寺町など居住区を区分し、城下町への入り口には大木戸や門を設けて町と在を区別した。村々では農民を検地帳に登録して土地に縛り、年貢納入を義務づけた。
 慶長国絵図で「町」とされている所は、北ノ庄のほか、石場・丸岡・大野・府中・東郷・敦賀であるが、北袋とある勝山も町を形成していた。これらは、後に城下町・湊町・在町として発展した。
 町は農村と区分されて成立していったが、諸藩が分立していたこともあって、町支配や町政の機構などは必ずしも一律ではなかった。城下町は、原則として町奉行(寺社町奉行)の支配とされ、町年寄制が執られた。三国は、金津奉行の支配下にあり、問丸以下の町役人を置いていた。農村部は、郡奉行の支配下に置かれていた。

図1.4.4 昭和7年(1770)の越前の所領構成 (※図説福井県史 p.115)
図1.4.4 昭和7年(1770)の越前の所領構成(※図説福井県史 p.115)
(1) 福井
 結城秀康は、北ノ庄城改築にあたり、吉野川の川跡を百間堀として利用し、新しく東側に荒川を掘削して足羽川に流入させた。城地の南には足羽川が流れ、北側および西側に外堀をつくり、その内側に本丸を中心として二ノ丸、三ノ丸、四ノ丸を配し、ほぼ同心円状に水濠を幾重にもめぐらしている。この郭内には侍屋敷の主要部が包含され、郭外の町屋地とは明らかに分離されている。このように、城地、武家屋敷地、町屋地と分離して城下域の拡大が計られた。また、町人町は北陸道に沿って鍵型に続いていた。
 寛永元年(1624)、松平忠昌が3代藩主となって北ノ庄城に入城すると、「北ノ庄」という呼称は縁起が悪いとの理由で、これを「福居」と改めた。さらに「福居」から現在の「福井」には、元禄年間に改称されたものと推定されている。
 福井城下における町方の人口は、表1.4.1に示すとおり藩政初期の慶長年間には約2万5千人を数えたが、中期以降は2万人前後で推移し明治を迎えた。一方、武家方の人口は、弘化4年(1847)の「御国人別帳」(松平文庫蔵)の記録によると約1万3千人であり、藩政時代における城下全体の人口は約3万3千人前後と推定されている。

表1.4.1 福井城下町方戸口表 (※福井市史 資料編 別巻 絵図・地図 p.32)
年次 総家数 総人数(人) 典拠
慶長年間 5,131 25,231 御給帳書上
正徳2年(1712)8月 21,393 宗旨大改の節の人数
正徳3年(1713)11月 5,488 町絵図出来の際調書
享保2年(1717) 5,399 20,813 「袖目金」
享保10年(1725) 5,491 21,622 松平文庫記録
寛延3年(1750)3月 5,538 20,483 「越藩貴耳録」
天明5年(1785)4月 21,589 松平文庫記録
寛政4年(1792) 18,369 寛政4年調
弘化4年(1847) 20,269 御国人別帳(松平文庫蔵)
(注1) 社家・寺院・山伏の人数も含む。
(注2) ※印のものは「稿本福井市史」上巻による

福井城の石垣
福井城の石垣

福井城下絵図 万治2年以前 (※福井市史資料編 別巻 絵図 ・ 地図編 P.46)
福井城下絵図 万治2年以前(※福井市史資料編 別巻 絵図 ・ 地図編 P.46)

(2) 丸岡
 
越前国丸岡城之絵図 (※図説福井県史 P.117)
越前国丸岡城之絵図(※図説福井県史 P.117)
丸岡藩は、坂井平野の東に位置し、5万石の領知高を有し、周囲には福井・松岡といった城下町などがあった。五角形の堀をめぐらした城の周囲に侍町があり、その南側に町人町があった。町人町も郭内に含まれる総郭型の城下町で、堀のない南西部には寺町とその外側に深田が存在して、防御の役目を果たしていた。
 幕末には、郭外にも町人町ができて、外町型に移行していった。
 丸岡城の築城者は、柴田勝家の甥の勝豊である。天正4年(1576)、坂井平野の東部の丘陵上に創建した。
 丸岡城は、日本最古の天守を有する城であり、城郭建築の初期の様式を伝えている。昭和23年(1948)の福井地震によって倒壊したが復元され、重要文化財に指定されている。
(3) 勝山
 
勝山城跡の碑 (勝山市公民館)
勝山城跡の碑(勝山市公民館)
勝山は、福井・大野、そして谷峠を経て加賀国へ通じる交通上の要地である。天正8年(1580)に柴田勝安(柴田勝家の養子で佐久間盛政の弟)が袋田村(現勝山市)に築城し、縁起の良い勝山と改めた。
 勝山藩は、大野郡北部から吉田郡東部の中心地であり、約2万3千石の領知高を有していた。勝山は、段丘崖を防御のため上手に利用した町で、九頭竜川の河岸段丘の上に城と侍町、段丘崖である七里壁の西側に町人町が形成されていた。
 江戸時代には領主の交代が激しく、一国一城令で廃城になっていたが、小笠原家が勝山藩主となったとき旧城の復活を幕府に嘆願し、宝永6年(1709)再建が許可された。
(4) 大野
 大野町周辺には、現在の大野城のある亀山、美濃街道を眼下に見下ろせ亀山とは指呼の間にある戌山、現在日吉神社が位置している亥山の3ヵ所に城跡がある。亀山城は、金森長近の創建になるものであるが、戌山・亥山ともに朝倉時代の城館跡である。
 亀山は、その形状が亀に似ていること、亀が金森家の家紋であったことにもよって、長近自身が命名したものである。亀山城は4年の歳月をかけ、二層四重の天守閣をもって築かれたとされているが、安永4年(1775)に焼失し、その後昭和43年(1968)に復興されるまで、再建されることがなかった。(※城郭と城下町 p.48〜49)
 亀山山頂に城が築かれたとき、その麓に藩の施設が置かれた。城の東側を短冊状に区画して町人町が区画されている。侍町は亀山の麓と町人町の北西・南西にあり、東端に寺院の集まる寺町が位置している。亀山城の西から西北にかけては湿地であったため、大きな堀は存在しなかった。長近は、東西六条、南北六条の碁盤目状に仕立て、城下町として整備を進めた。大野が“小京都”と称されるのは、このような町割りによるものである。美濃街道は、一番町・七間町・五番町とL字形に曲折しているが、この街道沿いに酒屋・呉服屋などの有力商人が軒を並べた。
(5) 武生
 武生は府中と呼ばれ、古代には国府が置かれていた町である。この町は、大規模な防御施設を持たず、開放型に近い城下町であった。
(6) 鯖江
 鯖江が城下町となるのは享保5年(1720)とかなり遅く、北陸道の南北に設けられた食違土居のほかには、ほとんど防御施設を持たない開放型の城下町であった。


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