日本海の海運は、織豊時代以来の初期豪商の活躍によって大いに開けた。それが寛文12年(1672)、西廻航路の整備によって下関から瀬戸内海を通って直接上方と結ばれることとなり、千石船、北前船の運行が盛んとなり、一層飛躍することとなる。
北前船交易は、2月末〜3月上旬にかけて準備が始まった。三国湊の船は、大坂の安治川、木津川に船囲いすることが多く、ここで綱の張り替えや補修を行い、商品物資を買い込んで積み込みされた。途中、三田尻などの瀬戸内の港で塩・酒・砂糖・木綿・たばこなどを買い、下関を回って日本海へ出た。そして、山陰の鉄や陶器、小浜で筵や縄、三国で米や笏谷石、酒田で酒などを買って積み込み、蝦夷地の江差・松前などで売り捌いた。江差・松前などでは加工したニシンや昆布を積み込み、途中いくつかの港に寄って大坂へ戻り売る。大坂に着くと秋になっていた。 |
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陸路は、松平秀康の時代から主要幹線道である北陸道の国境にあたる板取と細呂木に福井藩の関所を置き、その間には15宿駅の制度を定めて一層整備が進められた。 この北陸道は、大宝律令(701)の制定により全国に諸道を整備することとなって、その中小路として開通されたものであった。それが柴田勝家によって整備され、北国街道ともいわれ、五街道に次ぐ脇街道となった。 江戸時代には、北陸道を基軸として大小さまざまな街道の整備が行われた。福井から三国への三国街道、九頭竜川に沿って松岡から勝山へ向かう勝山街道、東郷・大野・穴馬谷を経て美濃へ向かう美濃街道、府中(現武生市)からは広瀬を経て河野・今泉浦へ至る西街道、丸岡から金津・東古市への金津道・鳴鹿道、今庄から二ツ屋に入り木ノ芽峠を越えて敦賀郡道ノ口から近江海津へ出て京都に至る西近江路と結ぶ街道等々が整備された。 北陸道が河川を横切る地点には、橋や舟橋が架けられていた。福井城下では足羽川を渡る地点に九十九橋、九頭竜川を渡る地点に舟橋が架けられていた。その他、九頭竜川、日野川、足羽川には舟渡しが利用されていた。 |
湯尾峠(今庄町) | 木ノ芽峠(今庄町・敦賀市) |