九頭竜川流域誌


3.5 交通の発達と交通路の整備

 日本海の海運は、織豊時代以来の初期豪商の活躍によって大いに開けた。それが寛文12年(1672)、西廻航路の整備によって下関から瀬戸内海を通って直接上方と結ばれることとなり、千石船、北前船の運行が盛んとなり、一層飛躍することとなる。
 越前は、九頭竜川河口の三国湊を中心として、九頭竜川・日野川・足羽川を利用した水運が発達し、九頭竜川は勝山まで、日野川は舟津(現鯖江市)まで、足羽川は宿布(現福井市)まで川船が往来した。越前の諸藩や幕府直轄領は、年貢米などを川船によって三国湊まで運び、ここから西廻航路を利用して上方へ回漕した。また、北前船は、福井市近郊で産出する笏谷石をバラスト代わりに積み松前まで行き、帰りには北国の海産物や肥料を積んで三国湊に戻ってきた。一方、上方からの戻り船には、瀬戸内の塩などが積み込まれ、越前国に運ばれてきた。
 九頭竜川河口に位置する三国湊は、福井藩の外港として保護・統制されていた。三国湊には、福井藩や幕府の米蔵のほか、諸藩が搬出する年貢米等を一時的に保管するために、商人から借り上げた町蔵も多数並んでいた。福井藩は、三国湊の流通制限を行うとともに、港に出入りする商品について口銭を徴収し、問屋の収入にあて、その一部を藩に納めさせていた。
 江戸中期になると、帆走、積載力に優れた上方の弁才船が北陸地方に導入され、従来の北陸独特の和船(北国船、ハガセ船)に取って代わることとなった。弁才船は、なるべく沢山の荷物を積めるよう胴部を大きく横にふくらませた形になっていた。
 

北前舟
北前舟

 北前船交易は、2月末〜3月上旬にかけて準備が始まった。三国湊の船は、大坂の安治川、木津川に船囲いすることが多く、ここで綱の張り替えや補修を行い、商品物資を買い込んで積み込みされた。途中、三田尻などの瀬戸内の港で塩・酒・砂糖・木綿・たばこなどを買い、下関を回って日本海へ出た。そして、山陰の鉄や陶器、小浜で筵や縄、三国で米や笏谷石、酒田で酒などを買って積み込み、蝦夷地の江差・松前などで売り捌いた。江差・松前などでは加工したニシンや昆布を積み込み、途中いくつかの港に寄って大坂へ戻り売る。大坂に着くと秋になっていた。
 北前船の多くは、商品を輸送する運賃積であった。しかし、中には船主自身が各地の商品を買い入れて船に積み込み、需要地で売るという買積経営を行う船主もあり、各地に寄港して積荷を売買することもあった。
 

図1.4.5 北前船の主な寄港地 (※図説福井県史 p.148)
 陸路は、松平秀康の時代から主要幹線道である北陸道の国境にあたる板取と細呂木に福井藩の関所を置き、その間には15宿駅の制度を定めて一層整備が進められた。
 この北陸道は、大宝律令(701)の制定により全国に諸道を整備することとなって、その中小路として開通されたものであった。それが柴田勝家によって整備され、北国街道ともいわれ、五街道に次ぐ脇街道となった。
 江戸時代には、北陸道を基軸として大小さまざまな街道の整備が行われた。福井から三国への三国街道、九頭竜川に沿って松岡から勝山へ向かう勝山街道、東郷・大野・穴馬谷を経て美濃へ向かう美濃街道、府中(現武生市)からは広瀬を経て河野・今泉浦へ至る西街道、丸岡から金津・東古市への金津道・鳴鹿道、今庄から二ツ屋に入り木ノ芽峠を越えて敦賀郡道ノ口から近江海津へ出て京都に至る西近江路と結ぶ街道等々が整備された。
 北陸道が河川を横切る地点には、橋や舟橋が架けられていた。福井城下では足羽川を渡る地点に九十九橋、九頭竜川を渡る地点に舟橋が架けられていた。その他、九頭竜川、日野川、足羽川には舟渡しが利用されていた。
湯尾峠 (今庄町) 木ノ芽峠 (今庄町・敦賀市)
湯尾峠(今庄町) 木ノ芽峠(今庄町・敦賀市)
図1.4.6 越前の交通路 (※図説福井県史 p.138〜139)


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