九頭竜川流域誌


3.7 幕末の動乱
松岡藩の砲台跡 (三国町梶)
松岡藩の砲台跡(三国町梶)

 松平定信は、寛政4年(1792)にロシア使節ラクスマンが、ロシアへ漂着した大黒屋幸太夫を伴って根室に来航し通商を請うに至り、海辺を巡視して海防を重視するようになった。翌5年(1793)、福井藩は大筒などの武器を用意して坂井郡浜坂浦(芦原町)から南条郡河野浦(河野村)までの船懸かりを調査し、丹生郡米浦(越前町)などに遠見番所を設け、異国船の漂着などに備えた。また、鯖江藩や勝山藩も沿岸警備のために動員された。
 その後、大野藩が弘化2年(1845)に洋式大砲の鋳造に着手し、福井藩でも弘化4年(1847)に洋式砲術の導入に踏み切り、嘉永元年(1848)に三国で洋式砲の鋳造を始め、同5年には洋式銃隊を編成した。丸岡藩は、文久5年(1865)に坂井郡梶浦から波松浦にかけて砲台場を築いている。現在、東尋坊近くに砲台跡が残っている。
 嘉永6年(1853)、ペリー引きいるアメリカ太平洋艦隊が浦賀に入港し、日本に開国を迫ったとき、福井藩主の松平慶永(春嶽)は強硬な鎖国攘夷論を唱えて軍備の増強を主張した。しかし、慶永は、アメリカ総領事のハリスが通商条約の締結を幕府に迫った安政4年(1857)には、世界の形勢を考えて鎖国を続けるのではなく開国し、積極的に海外にも乗り出すべきであるとの開国論へと転じ、幕府の政治にも積極的に関わるようになる。
 安政5年(1858)7月、慶永は幕府が朝廷の許可なく通商条約を結んだことや将軍の跡継ぎの問題で大老井伊直弼と対立し、隠居を命ぜられた。そして、翌年の安政の大獄によって、慶永の手足となって働いていた橋本左内も幕府によって捕らえられ、吉田松陰らとともに刑死することとなる。
 その後、慶永は、桜田門外で井伊直弼が暗殺されるなど政局に変化が生じたため、文久2年(1862)4月に謹慎を許され幕府参政に命ぜられ、さらに7月には政治総裁職に就き、将軍後見職の一橋慶喜とともに公武合体のための指導を行った。慶永は、また一時京都守護職にも就くが、幕府との折り合いがうまくいかず3ヵ月で職を辞し福井へ戻ってしまう。鳥羽・伏見の戦いが起こると、宗家徳川家の存続のために尽力した。

左内公園内に建つ橋本左内の銅像 松平春嶽の肖像画 (福井市郷土資料館蔵)
左内公園内に建つ橋本左内の銅像 松平春嶽の肖像画(福井市郷土資料館蔵)


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