九頭竜川流域誌


2. 河川舟運
2.1 河川舟運

(1) 概要
 7世紀後半、律令政府は中央集権的支配のため、交通と通信を体系的に整えた駅制という交通制度を設けた。それは、七道を中心とした幹線道路に約16kmごとに駅を設け、そこには馬を常備して急を要する命令・報告の伝達や、特定の公的な使者などが利用する制度である。北陸道各駅の駅馬数は5疋と規定されていた。陸路は、木ノ芽峠や栃ノ峠といった峠越えをしなければならず、米などの輸送には苦労した。
 平安時代になり東大寺領の荘園経営が進むと、租税・官物として米などの重い物を大量に運ぶ場合には、日本海航路や琵琶湖水運が頻繁に使用されるようになった。
 海運が発達するにしたがって河川舟運も盛んとなり、九頭竜川流域の産物を日野川・足羽川そして九頭竜川を使って河口の三国湊に集められた。そして海路を敦賀まで廻送され、そこで駄馬に積み替えて陸路を琵琶湖北岸の海津・塩津などに運び、湖上水運で大津まで航行して荷揚げして、陸路を平安京へ搬入するのが一般的であった。それより以前の奈良時代には、平安時代のルートと同様に琵琶湖水運によって大津まで廻送され、さらに瀬田川・宇治川を下って、木津川を上り平城京へと運ばれていた。
図1.5.1 古代の交通路 (※図説福井県史 p.44)
図1.5.1 古代の交通路(※図説福井県史 p.44)
 江戸時代、低平な福井平野を流れる九頭竜川河口には、三津七湊(三国・敦賀・浜田・由良・秋田・酒田・十三湊)の一つに数えられる西廻り航路の要港として北前船で賑わう三国湊があった。九頭竜川ではこの三国湊より勝山に至るまで53km、日野川については今立郡の舟津村(現鯖江市)まで48km、足羽川については足羽郡の宿布(現福井市)あたりまで36km、浅水川は今立郡の中河村(現鯖江市)まで、竹田川は坂井郡金津まで8kmの間、川舟が往来し物資輸送のための舟運路が開かれていた。
図1.5.2 舟運路
図1.5.2 舟運路
(2) 諸物資の川舟輸送
 三国湊は福井藩領に属し、藩の外港として保護・統制されていた。越前国内の諸藩や幕府直轄領では、河川舟運を利用して三国湊に年貢米を集め、海路を江戸や大坂へ廻送した。このため、三国湊には福井藩や幕府の米蔵のほか、町人の町蔵も多数有り、各藩がそれを借用して川を下ってきた年貢米を一時的に保管するのに利用していた。
 越前国内の諸藩の米蔵は、福井藩は福井城下近郊の明里をはじめ三国湊、丸岡藩では坂井郡滝谷村(現三国町)、鯖江藩は今立郡有定村(現鯖江市)など、河川舟運の便によい所に置かれていた。
 なかでも福井藩の明里米蔵は、慶安2年(1649)に設置され、足羽川右岸沿いに位置していた。そして、御払米として大坂などの米市場に売却される米は、足羽川の明里にある福井藩の米蔵から、足羽川・日野川・九頭竜川を経て、物資集散地であり日本海への出口である三国湊へ廻送された。
 年貢米の廻送のときには、用水堰などがあれば通舟の時期を限定したり、用水堰の損料を支払い、村々に迷惑がかからないよう十分な注意を払った。
 川舟の扱う商品は米のほか綿、木綿、生蝋、晒蝋、海産物、鉄、砂糖、塩、茶、蜜などである。足羽山で切り出された笏谷石も三国湊まで運ばれ、北前船で全国へと送られた。
(3) 川舟からの口銭収入
 福井藩は、三国湊の流通制限を行うとともに、湊を出入りする商品について口銭を徴収して問屋の収入とし、その一部を藩に納めさせていた。三国湊は、福井藩の保護のもとに年貢米をはじめ、領内の諸産物や他国商品の取り扱いによって利益を得ていたのである。
 三国湊の口銭役所が取り立てた口銭の銀高は、享保18年(1733)1月26日から10月までの約10ヵ月間に6貫996匁である。これは、取り扱った米33万2,150俵からのものであり、1俵あたり3厘を取り立てていたことになる。
(※三国町百年史 p.258〜259)
九頭竜川中流の船
九頭竜川中流の船
(4) 川舟の取締
 福井藩では「御舟方」が河川や川舟に関する取締りにあたった。「御舟方役所」は、福井城下の足羽川沿の御舟町にあり、水主頭が配下の水主組を統制したほか、藩主が乗る御座舟を預かり、御成りや川猟の時にはその舟を利用した。また、禁漁に指定した留川の取締りも行った。
 元禄12年(1699)には、丸役(本役)23艘、半役5艘、小半役7艘の計35艘の川舟があった。その後、幕末には川舟29艘、同半役5艘、同小半役10艘と推移した。
 川舟持のなかから川舟庄屋と半役川舟庄屋が各1人たてられていた。なお、三国湊の川舟は、海上輸送の廻船に年貢米など荷物を積み込むための艀の役割も果たしていた。
 貞享年間(1684〜1687)、三国には川舟問屋が28軒、上新町に3軒あった。
 日野川と足羽川との合流点付近に安居村(現福井市)があり、川舟持の基地とみなされていた。寛保元年(1741)には14艘の川舟があり、舟庄屋も立てられていた。なお、福井城下近くの足羽山一帯で採掘される笏谷石は、安居川舟持が足羽川の河岸場から三国湊までの輸送を独占していた。
(5) 川舟に対する御定法
 寛文4年(1664)8月、福井藩は御用舟の役目を果たし、役銀を納めた川舟には極印を捺すので、自分の荷物はもちろん商人荷物の運賃積も許可するといった内容の「御舟方御定法」を制定した。これは、商人が荷物を河川舟運によって三国湊に集め、海上輸送を図ったことに対して、陸上輸送にあたる宿々が陸上輸送の特権を申し出て、しばしば争論となったためである。しかし、馬借など陸上輸送業者と川舟業者との荷物の奪い合いを避ける取り決めが含まれていなかったため、争いは絶えなかった。
 貞享3年(1686)、加賀金沢から上方へ向かう荷物が北陸道の途中、金津宿から三国湊を経て、川舟で九十九橋下に陸揚げされた。通常荷物は、北陸道を宿継ぎしながら各宿駅の馬借によって運ばれていた。しかし、川舟を利用すると大量に早く輸送でき、費用が安くて済んだ。このため、金津宿と福井の間にある長崎・舟橋宿では荷物が通らなかったので、宿駅の問屋から三国湊の商人に対して訴訟が起こされた。そして、郡奉行から次のような裁定が下された。
 (a) 宿々を通すべき荷物を川舟に積み込む行為を禁止する。
 (b) 越前国内に向け、海上から三国湊に到着した荷物を川舟に積み込むこと、三国湊まで陸上輸送された荷物を海上から敦賀へ廻送することは認める。
 (c) 順風がないため陸上輸送に切り替えたい場合には届け出たうえ、三国湊から長崎宿に出すこと。
 (d) 越前国内から他国へ出す商荷物は川舟で三国湊に下ろし、それから海上を廻送することは認める。
 さらに、今立で生産された奉書紙を京都へ輸送することを巡り争論が生じ、元禄13年(1700)に福井藩寺社町奉行から商荷物の川舟輸送に関する裁定が下された。それによると、川舟で商荷物を舟廻しすれば、商人たちにとって都合がよいかもしれないが、それでは城下町中や往還の宿々の問屋や馬借たちが衰微してしまうので、米・雑穀以外を川舟で舟廻しすることを禁止するというものであった。
 こうした裁定や裁許は、陸上輸送業者と川舟業者とが荷物輸送で共存共栄するための「御定法」となった。
(6) 明里の米蔵
 福井藩の米蔵は、福井城下の明里(現福井市明里町)、松岡(現松岡町)、広瀬(現武生市)などにあったが、その内で最も大きな規模をもつ所が足羽川に面した明里御蔵である。この明里の米蔵には、足羽郡下の全村をはじめ鯖江・金津からも舟や馬で年貢米が運ばれてきた。その規模は、敷地約3千坪の構内におよそ間口約3間、奥行約10間の米蔵が34棟並び、6万俵の米を収納することができた。また、付属施設として蔵奉行の役宅と牢屋があったが、この牢には年貢を滞納した村の庄屋が完納するまで入牢させられていた。当時の納税は、現在のように個人別ではなく村単位で賦課されていたため、村役人が全責任を負わされたのである。(※新修福井市史 T p.168)
 明里の蔵に年貢米が納入される時期は10月から12月までで、翌年の3月には御払米として蔵米が払い出された。福井平野の米は、藩士の俸禄として支給されるほか、川舟に積まれて足羽川を下り三国湊へ集積され、明里米として大坂などの米市場に売却されるものもかなりの量にのぼった。
 このように足羽川は、経済・流通上の大動脈として重要な役割を果たしていたのである。(※福井城下ものがたり p.80〜81)
(7) 三河戸
 文政13年(1830)6月、福井藩は河岸場に関する規定を定めた。これは、河岸場を足羽川の九十九橋下、日野川の白鬼女、竹田川の金津の3ヵ所(三河戸と呼ぶ)とそれ以外とに区別し、舟上げ(川舟で河岸まで積み上げる)と舟下げ(川舟で積み下ろす)のそれぞれについて輸送できる商品を制限するものである。この規定は川舟輸送に制限を加え、陸上輸送業を保護する意図に基づくもので、三河戸については一定の制限緩和を行い、それ以外の河岸場を通じた商品流通に強い制限を加える内容のものであった。
 三河戸は、いずれも福井藩領に属しており、河川と北陸道とが交差する水陸交通の拠点に置かれていた。(※福井県史 通史編3 近世一 p.607〜608)
(8) 近世後期の河川交通
 陸上輸送業の保護という意図に反して、文政13年の規定を定めた後においても、利便性や経済性に優れた三河戸を中心とした川舟輸送は、一層の隆盛をみせた。
 しかし、道路整備が進むことによって、勝山・大野地域の幕府領の村々から出された「かせ」荷物は、舟橋宿まで陸上輸送した後、三国湊まで川下げされ、そこから上方へ海上輸送された。また、勝山産のたばこは福井城下まで陸上輸送された後、九十九橋下から三国湊へ川下げされた。
 このように近世後期においては、河川交通と陸上交通を組み合わせた輸送体系が形成され、河川交通が一層隆盛をみせた。
 明治に入っても河川交通は続いていて、明治15年(1882)に県内の河川で舟路が開けていた所は、11ヵ所あった。これは渡しと違って、河川を船で下ったり上ったりしたもので、車馬の代用として船で川を往来したものである。
 しかし、鉄道や道路が順次整備され、新たな陸上輸送網が形成されるに至り、河川舟運も衰退していった。
(※福井県史 通史編3 近世一 p.609〜610)

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