九頭竜川流域誌


7.4 人物

(1) 継体天皇
 1) 石塚神社の岩座(春江町)
 
石塚神社境内の岩座
石塚神社境内の岩座
男大迹王がこの地方に滞在され、境内にある巨岩の上から治水を指図された。その大きな岩が石塚神社の境内にある。石塚という地名もこれより生じたという。
 2) 久米田神社(丸岡町)
 
久米田神社
久米田神社
男大迹王は、振媛の養育のもとにこの地で成人され、高向郷の豪家から娘を娶り妃とした。男大迹王は、やがて都に上り帝位についたが、妃はこの地にとどまりみ子を生んだ。王は、大伴金村を使わして妃を迎えようとした。しかし、妃は産後のひだちが悪く、亡くなられた後であった。そこで、妃とお子をこの地に葬り、2回もこの地に使いした大伴金村を祀って久米田神社としたという。
 3) 王子治水(三国町)
 男大迹王が悪竜を退治するため足羽山に登り、海に向かって鏑矢を射た。矢は水の上をぐるぐる回っていたが、やがて海の方向へ飛んでいった。すると矢とともに水が海の方へ退いていった。
(2) 真名姫(大野市)
 
真名姫立像
真名姫立像
ある年大干ばつがあり、村中の水田が干上がってしまった。そのとき十文字長者の末娘の真名姫が、がけの上から淵に身を投じた。すると、にわかに雨が降り、田の作物が生き返った。村の人たちは、彼女が入水した川をその名をとって真名川と名付け、がけの上に松を植えて祠を置き、水神様つまり真名姫を祀った。
(3) 人柱
 1) 九十九橋の人柱(福井市)
 
九十九橋
九十九橋
柴田勝家は、九十九橋の橋脚となる石材48本の切り出しを石工頭の勘助に命じ、もし期限までに納付できなければ死罪にすると申し渡した。ところが47本を切り出したが、どうしたことが残りの1本の寸法が短く、柱に適しないことが分かった。
 困り果てている勘助を見た母親が、「自分にはかねて用意した石棺がある。その中へ入るので、その石棺を台にして柱を建てれば、寸法の不足を補うことができる。私は人柱となって橋を守ろう。」といって、石棺の中に入った。この人柱は、水際から西南の2本目の柱であったという。
 2) 人柱 小柳太郎左衛門(武生市)
 昔、横市・庄・塚町の三つの村は、高い所にあったため田に水を入れるのに苦労していた。そこで、三つの村が相談して上流の土呂川から水をもらい、代わりに大屋村に年貢米を支払うこととなった。
 隣村との境界に胴木という大きな松の木を埋めて堰とし、分水するようにしたが、土地の低い杉崎・北村の方へ水が多く流れ、三ヶ村には余りこなかった。そこで、水争いが絶えず10年余りも続いた。
 ある時、水争いをしている横市に一人の浪人がやってきて、飲む水も足らない村の人たちが親切にしてくれるので、しばらく滞在することとなった。水争いは激しさを増すばかりで、村中で困り果てた様子を見た浪人は、「世話になったお礼に、水争いがうまく収まるように、皆さんのお力になりたい。」といって、村人たちの留めるのも聞かず、静かに胴木の下敷きとなった。
 この時から胴木を回り2m50cm、長さ3m50cmとして分水の箇所に伏せることにした。そして、胴木は50年に1回伏せ替えることで、長く続いた水争いにも決着がついた。これは、慶長16年(1611)7月25日のことであり、この日を浪人小柳太郎左衛門を偲ぶ日として木像を造り、村の照明寺に安置してお祭りをするようになったという。
(※武生むかしむかし)
 3) 堤すもう(松岡町)
 昔、領家の九頭竜川堤の下に広場があり、そこに小堂があった。この広場では、盆の16日に相撲が行われていた。
 この付近の堤防がよく切れるので、なんとかしようと人柱を埋めることとなった。しかし、誰もなり手がないので、通りかかった筬売りを捕らえて人柱にしようとした。筬売りは、「自分は相撲が大好きなので、埋められた後もここで相撲を取ってほしい。」といって埋められた。
 その後、堤が切れなくなったので村人たちはお堂を建てて、筬売りの冥福を祈るとともに、毎年、堤で相撲を催した。


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