九頭竜川流域誌


1.2 川の名前の由来

(1) 九頭竜川
 九頭竜川の名前の由来には、いろいろな説があるが、その代表的なことを次に記述する。
 一つは寛平元年(889)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に示現され、その尊像を川に浮かばせたところ一身九頭の竜が現れ、尊像を捧げいただき流れ下って黒竜大明神社の対岸に着かれた。それ以降、この川を九頭竜川と名付けられた(「越前国名蹟考」)。
 二つめは、承平の頃(931年頃)国土を護るために国の四隅、すなわち東は常陸の鹿島、西は安芸の厳島、南は紀伊の熊野、そして北は越前の黒竜大明神に四神が置かれたとき、そのうちの黒竜大明神の祭神は水体、黒竜王であり、その前を流れる川を「黒竜川」と呼ぶようになった(「国主記」)。
 三つめは、荘園当時に記された「大乗院寺社雑事記」の絵図に「崩川」という名前が
見られ、「太平記」には黒竜明神を“クズレ明神”と記されている。このようなことから、時を経て九頭竜川と名付けられたのである。
 なお、次頁絵図中の鳴鹿川は現在の竹田川、崩川は現在の九頭竜川、北庄川は現在の足羽川である。
崩川と記されている河口・坪江荘の絵図〔大乗院寺社雑事記)
(2) 日野川
 天平神護2年(766)、東大寺領道守荘開田絵図によると「味真川」となっている。これは、浅水川の上流が味真野に始まるためといわれている。また、「万葉集」の大伴家持の長歌には、叔羅川(シラク川もしくはシラキ川)の名前が出てきているが、国府(現武生市)近辺を流れる日野川を指しているといわれている。中世には、「源平盛衰記」の寿永2年(1183)の燧城(現南条郡今庄町)攻めの中で「日野河」と書かれており、日野山の西側を北流するために名付けられたと伝えられている。近世には、中上流を日野川、中下流を白鬼女川と区別している(「越前地理便覧」1685)。また、水源の夜叉ヶ池に祀る信露貴神社の由来から信露貴川としている古文書もみられる(「越藩拾遺録」)。
 日野川という名前に統一されたのは、明治初年成立の「越前三大川沿革図」に、その名が見られるので、明治以降であろうといわれている。
(3) 足羽川
 天平神護2年(766)、東大寺領道守荘開田絵図によると「生江川」となっている。「大乗院寺社雑事記」の絵図には「北庄川」、「越前地理便覧」には上流を「池田川」、下流を「市波川」と記してある。江戸時代、福井城下では、福井川もしくは大橋川と呼ばれていたようで、「足羽川」と総称されるようになったのは、江戸中期以降であろうといわれている。
(4) 真名川
 真名川は、大野のほぼ中央部を流れることから「真中川」と呼ばれ、「大野往来」や「大野郡誌」には「鶴川」と書かれ、「越前国名蹟考」には「真那川」と記されている。
 江戸時代郡上藩領であった御給・東山村(現大野市御給・東山)付近では、この川のことを「細沙川」ともいった。
(5) 女神川(勝山市)
 平泉寺の東から流れ出る川を女神川という。平泉権現は、伊邪那美命で女神であることから、この名がある。権現をこの川の川上に坐したので、川上御前ともいわれた。
(6) 文室川(武生市)
  文室川は、水無瀬川または味真野川ともいわれる。平素は白い石ころの河原で、水量が少ない。
 男大迹王が猟をしたとき、川水があふれて渡ることができなかった。王は水波能亮命に祈り、「再び水を川の面に現す事なかれ。」といわれたので、それ以後は川水が地上に現れず、白い石ころの川となったと伝えられている。それゆえ、王は水無瀬川と名付けられたといわれている。
(7) 天王川
 天王川が朝日町青野にある神社の横を流れるあたりを音無川といわれる。昔、ここに寺があり天王川の早瀬があまりにも激しい音をたてて流れるので、住職が安眠できず、日中の勤行にもさしつかえた。そこで住職は、7日間日夜読経して祈願した。そのため満願の日には川瀬の音がやみ、水が淀むようになった。それ以後、音無川と呼ぶようになったといわれている。


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