九頭竜川流域誌


4. 江戸時代の治水
4.1 江戸初期の治水

  江戸時代までの九頭竜川などの堤防は、洪水の勢いを弱め低地に遊水させる目的を持った、日本古来からの築堤術である霞堤や輪中堤が主流であった。
 今から約400年前、関ヶ原合戦の恩賞として慶長6年(1601)7月に結城秀康が福井藩主として北ノ庄へ入封した。秀康は、その翌年に北ノ庄城の築城着手と併せて、筆頭家老である本多富正に命じて城下を水害から守るため、九頭竜川左岸の松岡から北野(現福井市)にかけて連続堤防を築かせた。この堤防は、富正の隠居後の法号である元覚をとって「元覚堤」と呼ばれた。
 また富正は、自分の居城である府中を水害から守るために、日野川筋の武生市南に「昼夜堤」を築いたと伝えられてる。(※西藤島村史 p.656〜657)
 富正は、さらに日野川の白鬼女橋下流左岸の下司堤、右岸の上鯖江堤、下江守付近右岸の大堤など局部的な築堤を行った。
 このほか江戸初期には、浄土寺村から山岸村(現三国町)までの四郷堤5,700間(10.36km)および天菅生(現福井市)から江上(現福井市)にかけての1,200間(2.18km)の堤防もできていた。この当時の堤防は、場所によって差異はあるものの、おおむね根幅3間(5.45m)、馬踏幅1間(1.82m)、高さ2間(3.64m)程度のものであった。
 足羽川では、北ノ庄城のある右岸を固め、左岸は板垣から木田地方にいたる間を霞堤として、洪水時には左岸の水田地帯に河川水を落とし、城下町を水害から守るように考えた治水工事が進められた。


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