九頭竜川流域誌


4.2 山方掟書

 結城秀康は、一向一揆との戦いなどで荒れ果てた国内を治めるため、戦火で焼けた民家や寺社の復旧にも力を注ぎ、厖大な建築資材を使ってまちづくりに努めた。このとき、木材を付近の山々から伐出することは禿げ山をつくることとなり、大雨ともなれば土砂災害や洪水を引き起こす原因ともなるため、入封早々に山方法度を定めて山奉行1人を置いて山林の保護に努めた。
 福井藩は、慶長6年(1601)に入封から天和までの80年間にわたって、松の植林を奨励した。この間に福井藩は、承応2年(1653)に初めて9ヵ条からなる「山方掟書」を制定し、さらに延宝5年(1677)には「山方御条目」26ヵ条を制定して「御立山」などの諸制度を完備した。その後、宝永2年(1705)からは山奉行が2人となり、その下には山守を置いた。
 福井藩が山方制度に力を注いだ大きな要因は、一つには治山治水の見地からであり、他の一つには外様大名の筆頭である加賀藩を意識し、極秘のうちに国境を精査しつつ、防備に配慮したとも伝えられている。
(※河川のルーツ p.171〜172, p192)


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