九頭竜川流域誌


4.3 木部(鬼辺)輪中

 低くて連続しない堤防近くの集落は、洪水ともなれば危機に瀕し、近世中頃まで水防が集落存亡の基本条件であり、各村々が集まり自治的な水防共同体が結成されていた。各民家においても石垣を高く積み、盛土して屋敷を水害から守り、時には水屋や3階を造り、そこには食料や寝具などの生活必需品や非常持出品などの貴重品を保管貯蔵して、浸水の際にも困らないように平常時から心がけていた。九頭竜川の輪中の代表とされる木部輪中でも、堤防の修築保全の費用などは、慣行に従い各村落の負担であった。
木部輪中絵図 (江戸時代)
木部輪中絵図 (江戸時代)

 河口近くの兵庫川と九頭竜川とに挟まれた旧木部村(現坂井町)と旧大石村(現春江町)は、古くから水田が開かれていた地域で、兵庫川(一部は磯部川)から用水を引水し、九頭竜川(一部は竹田川)に排水することで水稲耕作を営んでいた。
 この地域は、土地の高低差があまりなく降雨のたびに農地が冠水するため、堤防を築いて洪水に対処するとともに、排水路を掘削して排水を良くすることが、農家にとって農業経営上の大きな課題であった。そこで、正善地区(春江町)から清永地区(坂井町)までの村境に堤防を造り、これを九頭竜川および兵庫川の堤防とつなぎ、上流から流れてきた洪水を防ぐ工夫がなされ、集落を囲むような堤防が形成された。これが木部輪中であり、寛政8年(1796)に完成した。
(※春江町史p.347〜349, p452)
 正善と清永の間の堤防は、初めは集落を結ぶ道であったが、洪水のたびに流れ込む水を防ぐために、永い歳月をかけて道を高くするために盛土を繰り返し、それが堤防となったものである。(※川の生活誌 p.51)
 木部輪中によって上流の村では水はけが悪くなり、幾たびか争論が生じた。そこで、寛政12年(1800)には、堤防の高さを定める定杭を打って高くすることを規制した。この定杭は堤防とともに、昭和30年代後半に県営土地改良事業が実施されるまで、残されていたと伝えられている。(※堤防 p61〜62)



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