九頭竜川流域誌


4.4 赤根川

 大野盆地を北流して真名川に合流する赤根川は、江戸時代には蛇行が激しく、少しの降雨でも氾濫し付近の水田に土砂を堆積させるなど、実に厄介な河川の一つであった。蛇行を整正するような大規模な川除工事は実施されていないが、村々が費用を出して川除等の治水工事を実施してきた。西大月村(現大野市)には、享保13年(1728)の大洪水記録が残されており、赤根川の様子が記録されている。それによると、赤根川は大野郡阿難祖村(現大野市)上流の阿難祖山を源とし、左支川日詰川などを合わせ、西大月村までおよそ2里(約7.9km)ほど下り、下荒井村御林下(現勝山市)で真名川へ落合う川であり、川幅はおよそ30間(54.5m)、土井堤長55間(100m)、堤防敷は2間(3.6m)で高さが5〜6尺(1.5m〜1.8m)、馬踏幅5〜6尺であった。川中には水刎枠や乱杭が設置され、水勢を減じる工夫がなされていた。しかし、この程度の堤防施設ではあまりにも貧弱であり、洪水には耐えられないのは当然であった。享保13年の洪水後、西大月村では幕府が御普請所を設置して大工事を実施した。
  西大月村では、福井藩領から寛永元年(1624)に大野藩領となり、天和2年(1682)には幕府領で福井藩預かりとなっていたが、貞享3年(1686)に幕府領、元禄6年(1693)郡上領となるものの同10年(1697)には幕府領となり、元文元年(1736)には福井藩預かりとなった。このように統治者が度々代わったため、その都度御普請所の工事も統治者の政策や財力によって大きく変動したようであった。西大月村の古文書によると、元禄元年(1688)から元文元年までの約50年間には、8回大洪水が発生しており、その都度堤防の復旧工事などが実施された。(※大野町史 中巻 p.1490〜1495)


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