九頭竜川流域誌


4.5 女神川
女神川氾濫犠牲者慰霊碑 (勝山市猪野口)
女神川氾濫犠牲者慰霊碑 (勝山市猪野口)

 享保11年(1726)2月29日、豪雪の冬も終わり春の気配がみえはじめたころ、融雪洪水が発生して女神川が氾濫し、猪野口村(現勝山市)が全滅するといった大災害が生じた。
  これは、豪雨によって女神川の水源近くの十月平が雪どけで崩れ落ち、おびただしい土砂とともに下流へ押し寄せ、たちまち牛ヵ首の岩山を突き破り、揚原をのりこえ姥ヶ堂の出っ張りをもぎとり、さらに猛威を増し、岩石や立木を根こそぎにして猪野口村を襲った。当時の記録では、全村53戸のうち48戸が流失または埋没し、死者82人、牛馬も14匹死亡するのいうものであった。
  また、平泉寺村でも13人、他の村々でも数人づつ死傷者があった。合計すると5,300石の田畑が流失しており、勝山藩の1/4にあたる損害を被った。
  この洪水氾濫による大災害から100年経った文政9年(1826)に、慰霊碑が建てられた。
 享保11年の洪水後も女神川は、しばしば洪水氾濫を発生し沿川の村々に大被害をもたらした。宝暦14年(1764)の「川除き石枠御普請」という記録によると高さ2間(3.64m)、横2間の木枠2組をつくって堤防をかため災害に備えたという。このため、大工8人、人足138人、資材として長さ2間の枠板(雑木)32本、長さ1丈3尺(3.94m)、幅4寸(12.1cm)、厚さ2寸(6.1cm)の貫(松)40本、長さ2間の柱(雑木)128本、藤縄16房を要したとある。この工事は、毎年のように繰り返えされ、明和3年(1766)、同5年、同7年、また安永元年(1772)から同9年(1780)まで、同6年(1777)を除いて毎年行ったという記録が残っている。


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