九頭竜川流域誌


5.3 春江堤防と堤防祭

 九頭竜川右岸下流の高屋から定広までの約3,000間(約5.4km)は、福井藩による堤防修築工事が実施されなかった箇所で、無堤状態であったため洪水のたびに水害を被っていた。春江町史によると九頭竜川下流地域は、慶応2年(1866)から明治30年(1897)までの間に年間1〜7回も氾濫による被害を受けていた。これは主に、春の雪どけ、梅雨や台風による豪雨による出水が原因であった。
 このような地域で大庄屋から郷長郡中総代の職にあって、坂井郡担当の堤防取締役を兼ねていた坪田仁兵衛は、築堤の必要性を周辺の村々に説き、賛同する庄屋とともに明治4年(1871)以降、しばしば築堤工事の請願を国や県に行った。しかし、堤防敷地となる一部に用地提供を不同意する人が出たり、多額の工事費を要するということや洪水による復旧工事に経費を要したという理由などから着工するにいたらず、明治30年(1897)10月に九頭竜川改修の応急手当工事として、工事費の内55%と用地買収費全額を関係する村の負担において、ようやく許可された。
 工事は、高屋から高江までの1,345間(約2,445m)と安沢から定広までの1,329間(約2,416m)の2工区に分けて翌31年3月に着手し、同年7月には築堤工事約4.8kmが完成し、翌年1月には樋閘20ヵ所の石積工事も完成した。ここに、20数年に及ぶ悲願が達成された。堤防の形状は、平均高さが2尺3寸9分(約72cm)、平均敷幅5間4尺6寸(約10.5m)であった。 
春江堤防の築提記念碑 春江堤防の築提記念碑 春江堤防の築提記念碑
春江堤防の築提記念碑

 工事着手後、2ヵ月遅れの5月25日、春江堤防水害予防組合の設立が県告示第90号で認可された。水害予防組合は、春江築堤の責任団体であり、同時に九頭竜川下流の磯部川、兵庫川などの支川が合流する区間の防水・排水・灌漑などの対策などに専念し、昭和40年(1965)に当時の福井県坂井地方事務所から春江町役場に引き継がれるまでの67年間にわたり存続した。
(※堤防 p.330〜335)
 その後、後述する九頭竜川改修第一期工事により、明治41年(1908)3月に高屋から正善に至る約4.8kmの春江堤防が完成した。それを記念して明治44年(1911)3月、春江町石塚に九頭竜川改修築堤記念碑が建てられ、毎年7月に記念碑の前庭において堤防祭が行われるようになり、今日に至るも継続されている。



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