九頭竜川改修の気運が高まったところへ、明治29年(1896)に河川法が公布されたのを契機に、衆議院議員であった杉田定一は同法第8条を適用して、九頭竜川を他の日本の重要河川とともに、国家の事業として施工するよう働きかけた。九頭竜川については、同31年(1898)3月14日内務省告示第22号をもって、「左岸は下志比村、右岸は鳴鹿村から三国の河口まで川幅百四十間(254m)乃至百七十間(309m)」として、河道拡幅や浚渫、そして連続堤防を築いて越流を防ぎ、あわせて河川舟運のことも考慮した、九頭竜川改修基本方針が立てられた。また、日野川および足羽川については、同31年10月31日内務省令第88号をもつて着手することが決定した。
九頭竜川改修工事は、明治33年(1900)に始まり、日露戦争のため工事が遅延したが、明治44年(1911)に11ヵ年にも及ぶ歳月を要して完了した。
引続き明治43年(1910)からは日野川の改修に着手し、大正13年(1924)をもって、初めの計画どおりの大改修が完了した。
改修工事の実現にあたっては、多くの人々が苦労し力を尽くしたが、中でも先述した衆議院議長ともなった杉田定一の功績が大きく、西藤島では昭和3年(1928)10月4日に治水謝恩碑を建て、芦原にて78歳の余生を送っていた杉田定一翁を迎えて盛大な除幕式が行われた。この謝恩碑は、西藤島公民館の横に祇王・祇女の祠と並んで建っている。また、足羽神社境内には、いかに画期的な大工事であったかをものがたる九頭竜川修治碑が建てられている。(※西藤島村史 p.694〜701) |