九頭竜川流域誌


1. 九頭竜川直轄改修の経緯
1.1 概要

 九頭竜川流域では、継体天皇が越前の国にあって男大迹王と呼ばれていた頃の治水伝説が多くの地区にあり、5世紀末から6世紀初めには、河川改修が進められたものと考えられる。特に、九頭竜川の治水の端緒は、この男大迹王によるものであると信じられており、足羽山の山頂には継体天皇の徳を偲んで足羽神社が造営され、三頭身の石像も建立されている。
  その後においても九頭竜川は、鳴鹿地点より福井平野に出るとき、鳴鹿を扇頂とする扇状地を流れるため河道が固定せず、大雨のたびに放射状の河道が生まれて洪水となり氾濫して、大きな被害を生じていた。
  荘園時代やその後の江戸時代には領地が入り乱れ、領主は自領を治めることにとらわれ、また財政的な面もあって、統一した治水工事が行われなかった。しかし、江戸時代には城と城下町を洪水から守るための築堤工事が行われた。代表的な堤防としては、福井城下を洪水から守るため、結城秀康が国家老の本多富正(元覚)に命じて行った九頭竜川左岸の松岡から北野にかけての連続堤「元覚堤」、日野川の府中(現武生市)南方の「昼夜堤」、大野城に対する「堀兼堤」などがある。
  明治時代に入り、明治維新前に立てられた福井藩の新堤防築造計画が維新後の混乱により実現しなかったが、明治期後半になってから、水衝部の河道を固定する低水工事や、局部的な築堤工事が実施されるようになった。その一つが明治31年(1898)3月から明治41年(1908)にかけて行われた、高屋から正善にいたる約4.8kmの春江堤防である。
  そして、明治28、29年の大洪水を契機に九頭竜川改修の気運が高まったところへ、明治29年(1896)に旧河川法が公布され、淀川など他の重要河川とともに連続堤防を築き洪水に対処し、併せて河川水運にも配慮した九頭竜川改修基本方針が樹立された。それに基づき、九頭竜川改修工事が明治33年(1900)から内務省直轄工事として進められ、第一期改修工事として福井市や福井平野などの洪水防御を目的に築堤・掘削工事などを九頭竜川、日野川下流部、足羽川で実施し、明治44年(1911)に完成した。また、日野川上流部の築堤工事および支川浅水川の付替工事を目的にした第二期改修工事が明治43年(1910)に着手され、大正13年(1924)に完成した。この一連の工事は、福井平野部の九頭竜川本川、日野川、足羽川などにおいて旧堤を拡築するとともに、連続堤防を築くなどの画期的な大工事であった。その大工事を後世に伝えようと足羽神社境内には、九頭竜川修治碑が建てられている。
  その後、昭和23年(1948)6月28日の福井大地震によって九頭竜川、日野川、足羽川等の堤防が陥没、崩壊などの大被害を受けたところへ、同年7月の出水によって九頭竜川本川左岸福井市灯明寺地先で破堤するなどの大災害が発生した。そこで建設省は、直轄工事で原形復旧を基本とした災害復旧工事を実施し、昭和28年(1953)3月に竣工した。
  しかし、その直後の同年9月には台風13号による洪水によって、日野川右岸足羽川合流点直下の福井市三郎丸地先をはじめ多くの箇所で破堤氾濫が生じ、大被害をもたらした。そこで、建設省は昭和31年(1956)度より九頭竜川再改修事業に着手し、日野川の河道掘削を主体とした改修を進めた。その後、昭和34年(1959)から昭和40年(1965)にかけて台風や豪雨などによって大出水が相次ぎ、ダムによる洪水調節を織り込んだ治水計画に改定して、治水事業を実施してきた。
  しかしながら、近年流域の開発が進み、流域の人口が増加し、また経済の拡大など資産の増大と、足羽川の計画規模を上回る大出水などにより、治水の安全度が低下したため、治水計画を再検討し、九頭竜川本川基準地点中角での基本高水流量を8,600m3/sとし、上流のダム群によって3,100m3/sを調節し、計画高水流量を5,500m3/sとする工事実施基本計画を昭和54年(1979)3月に改定し、現在これに基づいて災害を防止することを目標に整備を行っている。
  なお、真名川ダムの治水機能を維持確保するため、昭和53年(1978)度より真名川流域において建設省直轄砂防工事が行われている。


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