九頭竜川流域誌


1.2 福井県の動き

 九頭竜川流域の治水事業は、幕末から明治初期にかけて築堤工事に一部着手、あるいはエッセルやデ・レーケによる測量および改修計画の立案などが進められたが、本格的なものとはならなかった。むしろ、毎年のように襲ってくる洪水に対して、いかにして被害を少なくするかが当面する大きな課題であった。
 福井県は、被害を受ける集落や住民から毎年提出される請願書に報いられるよう、水系全体としての統一的な改修を進める必要があった。こうして、九頭竜川本川下流右岸の春江堤の計画と相前後して、明治22年(1889)の通常県会において九頭竜川改修事業の計画に要する専門技師招聘の議を建議することになった。同25年(1892) に土木技師として二見鏡二郎を聘用し調査に従事させた。同年、県会では同26〜30年度(1893〜1897)の5ヵ年継続費をもって、道路、港湾、河川の修繕を議決し、春江新堤および付帯の工事もこれに編入した。
 明治27年(1894)10月、二見工師は九頭竜川改修とその範囲内において春江堤築造の計画を立て、県会に対し意見を陳述した。また、同工師は全体改修では巨額の工費を要するため、到底県費ではまかないきれないとして同年末に上京し、土木監督署長会議において協議するにいたった。しかし、調査が十分でない点があるとして当初計画の確定を見ず、さらに調査を継続することになっていた。また、二見工師の更迭や、明治28、29年の大洪水後の災害復旧などで、県の当局者が極めて多忙となったため、その進行が阻まれた。一方、住民からは全川改修を急ぐ声が一層高まった。
 政府は全国的な水害の頻発によって、統一的な治水政策を進め河川行政を効果的に実施する必要があることから、法体系を確立するため明治29年(1896)に河川法を制定し、重要な河川工事については国が直轄施工するとともに、府県の河川行政について指導監督を行うこととなった。同29年、第九帝国議会において利根川、荒川、淀川、九頭竜川など12河川の改修が建議された。また、衆議院は九頭竜川を含む全国12河川の内、改修準備の整ったものから政府財源の許す限りにおいて、同30年(1897)度より着手することを政府に建議した。
 福井県は、同29年(1896)6月に県知事から4月発布の河川法第8条により、九頭竜川改修を明治30年(1897)度から直轄施工することを内務省筋に上申し、同年7月の臨時県会では次年度からの改修工事着手について陳情を要請するなど、九頭竜川改修の機運が大いに高まった。しかし、一方では春江堤の築造期限が切迫しているにもかかわらず、全体改修計画の成案を見ないまま29年末に二見工師の更送があり、県では後任者の選択に悩んだ末、明治30年(1897)3月元第四区土木監督署技師名井九介を嘱託とした。同技師は本川改修に関して第四区土木監督署長(当時兼務)沖野忠雄および同署技師原田貞介の実施調査、沖野署長の提案による改修方針に基いた種々の調査を行った。その結果、明治28〜29年(1895〜1896)の大洪水時に行った調査により、ほぼ水理関係は明らかになっていたので速やかに進行した。そして、二見工師の計画および原田工師の意見をも参考にし、遂に同年11月全川改修の計画を完了し予算の調整を行って知事に報告した。
  そして明治30年(1897)11月、通常県会に「九頭竜川改修施工ノ件」が諮問された。改修の対象は、九頭竜川(松岡村より下流)、日野川(東安居村下市より下流)、足羽川(福井市豊島中より下流)の3河川であった。県会は、長く待望していた議案であり、即日満場一致で可決した。傍聴席からも喜びの声があがったと議事録に記されている。
 春江新堤については、全体の計画範囲とは別に、これを施工するものとして設計を行った。知事は改修計画および予算を河川法第8条の趣旨により、内務大臣に直轄施工することについての要請を明治30年12月の通常県会に諮問し、全会一致をもって可決した。そこで知事は、直ちにその旨を具申し、翌31年(1898)度より着手することを上申した。


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