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表2.4.1 河川法適用河川区域(2条) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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明治33年(1900)3月、内務大臣は河川法第8条に基づいて、同年度より国直轄で九頭竜川改良工事施工の旨を告示し、その区域を表2.3.3のとおり定めた。 同年4月より第四区土木監督署において工事に着手し、その後内務省名古屋土木出張所(第四区土木監督署を改称)において引続き施工された。起工以来7ヵ年を経過する頃には、すでに築堤の過半は目を見はる効果をあげ、その他保安林の編入および砂防の施設の完備をもって改修工事全体の竣功とした。 これら内務省時代の九頭竜川改修事業は種々の困難を極め、多年にわたって施工されたが、工事費381万円余を要して、明治44年(1911)に第一期改修工事は完了した。 事業費の年度別を示すと、表2.4.2のとおりである。なお、年度は明治である。 |
表2.4.2 年度別事業費 | (単位:円) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(2) | 計画の基本方針 |
第一期改修工事計画当時における九頭竜川本川の河道状況は、無堤のところが多く、藩政時代から明治初年にかけて築堤された堤防も、霞堤や越流堤で構造的にも脆弱なことから、明治時代の4大洪水のような大洪水には勿論のこと、中小洪水に対しても氾濫被害をもたらしていた。さらに屈曲部が多く、その上河積の不足する箇所が随所に見られ、水害に拍車をかける大きな要因となっていた。 しかし、全川にわたって改修を行うことは容易でないことから、先ず洪水のたびに大きな被害が生じる下流部から着手することになった。 そこで、明治29年(1896)に公布された河川法に基づいて、翌30年(1897)11月に九頭竜川改修計画の基本方針が成立した。その内容は、当時の資料によると以下のとおりである。 |
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足羽川放水路については、次のような計画が立てられた。 |
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(3) | 計画の内容 |
本計画では、在来の水路を拡張し改修を加える方針を採り、従来の最高水位であった三国町量水標の水位8尺(2.42m)および福井市量水標の水位13尺(3.94m)を両所の計画高水位として定め、その中間〜上流および河口に適当な勾配をつけた。また、川幅は九頭竜川本川下流300間(545m)、上流森田付近140間(255m)、日野川100間(182m)、足羽川福井市下流80間(145m)、その上流80〜100間(145〜182m)とした。 工事は、九頭竜川本川については両岸堤防を連続させるなど増築工事を施し、日野川については河床を掘削することにより河積の不足を補うこととした。また足羽川は、足羽郡東安居村大字水越地内において長さ13丁(1.4km)、同郡同村大字明里地内において長さ4丁(0.4km)、幅員各80間(145m)の放水路を新設することとした。しかし、在来水路は遮断した方が得策であったが、新水路の河床勾配が急であり、低水時の流速6尺/秒(1.8m/s)以上に達し、通船に障害を来たすため、新水路は単に洪水分流を目的とし、全流量25,000立方尺/秒(700m3/s)の内、在来水路で10,000立方尺/秒(280m3/s)、放水路で15,000立方尺/秒(420m3/s)を流下させることとした。福井市内においては、左岸を堤防によって保護し、右岸については築堤の余地がないので、石積を計画高水位以上1.2mに改築した。足羽川上流については、幅員狭少の箇所を拡張し、その他の箇所は全て堤防を増築した。 |