九頭竜川流域誌


2.2 九頭竜川再改修工事

(1) 県の動き
  福井地震および豪雨による堤防決壊などの復旧工事は、昭和28年(1953)3月31日に完成した。しかし、工事は原形復旧に重点を置かれたものであること、下流区域に限定されていたこと、戦中・戦後の乱伐による上流山地の荒廃による土砂流出、堆積についての対策には手が着けられていなかったことなどが重なったうえ、復旧工事が終わった同年9月の台風13号が豪雨をもたらしたため、足羽川合流点直下の日野川右岸の堤防が決壊するなど大きな被害が発生した。
 当時福井市議会議員であった東郷重三氏の手記である「宿命とのたたかい」のなかから、その要旨を整理すると次のようである。(※西藤島村史 p.710〜711)
(a) 十数年の間に堆積した土砂により、川底が極度に高くなり天井川の様相を呈していた。
(b) 九頭竜川、日野川合流点より上流4kmの区間は、日野川の流下断面が極度に小さい。
(c) 日野川、足羽川の両川では、同川に注ぐ荒川をはじめ各準用河川以下の川が震災後改修され、堤防も補強されたので出水の際に氾濫が無くなり、短時間の内に日野川、足羽川に流れ込み、一時に流量が集中するようになった。
(d) その他、水源地帯の乱伐による土砂流出や地震による地盤沈下によって、河川勾配に変化が生じ、流れに影響を与えている。
 東郷重三市議会議員が指摘する原因を解消するためには、日野川の川幅を広げ流下断面を拡大することおよび、九頭竜川、日野川の河床に堆積した土砂を浚渫して川底を下げる必要がある。
 当時、福井市内の足羽川では、荒川の排水を良くして城東地区の氾濫被害を解消するため、水越捷水路の掘削工事が進行していた。この工事が完成すれば、川幅が狭い足羽川合流点より下流の日野川の疎通が障害となって、荒川の排水改良がなされないことはもとより、足羽川からの洪水などによって、再度堤防の決壊を招く恐れがあるものと思われ、日野川改修の早期着手が熱望されていた。
  そこで、昭和29年(1954)12月、熊谷太三郎福井市長を会長とする九頭竜川再改修促進期成同盟会が結成され、県をあげて治水問題に取り組むこととなった。
(※私の春秋 p.240〜241)
 しかし、足羽川合流点より下流の改修を進めるにあたっては、次の問題を解決する必要があった。
(a) 拡幅のための用地を地元が提供する問題。
(b) 浚渫土を耕地の客土として利用するにあたって、受け入れ態勢を整える問題。
 工事にあたって、堤防の拡幅に要する用地としては、約4万m2の土地が必要であり、日野川の浚渫土約120万m3を客土するためには、運搬距離等から川より1km以内の耕地に運び込む必要がある。
  このような状況に対応して、昭和30年(1955)10月には県議会において決議がなされるなど、再改修の要望が高まった。
 そこで、県および関係市町村が熱心に国に働きかけ、従来の計画高水流量を改定して、昭和31年度より建設省直轄工事として、九頭竜川再改修工事に着手した。
 地元では、永年の治水問題を解決する工事であるため、土地提供や客土の協力をおしまなかった。そして、昭和31年に国費3,000万円の支出が認められたのを契機に、日野川下流4km区間の右岸堤防の腹付け工事が着手され、河道浚渫工事などが進められた。
(※西藤島村史 p.709〜715)
(2) 主要な工事
  工事は、浚渫工事が主体で、福井市高屋町地先の日野川合流点から下流の九頭竜川、および合流点から上流の清水町朝宮地先までの日野川で実施した。
 浚渫した土砂は、地盤沈下対策として、周辺水田の客土による乾田化工事に利用し、昭和46年(1971)までの15年間に掘削量が約500万m3に及んだ。


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