戦国時代が終わり社会が安定してくると、城下町の建設に合わせて人口が集中し、消費生活も拡大することによって、燃料や建築材料などとして木材需要が増大した。そのため、天然の木材が枯渇するほど森林が切り開かれたこと、焼畑農業が各所で展開されたことなどのため、洪水や土砂害が頻繁に発生した。それを防止するため幕府は、上流山地の伐採を禁止することや植林を推奨するなどの政策を進めた。 寛文6年(1666)2月、幕府は「諸国山川の掟」の令を出して、木の根の掘取りや焼畑を禁止し、木が生育していない山には植林を命じるなど、山地の取り締まりを強化した。貞享元年(1684)には、再度「山川の掟」が発令された。 福井藩では、承応2年(1653)に「山方掟書」9ヵ条を定め、御立山(藩有林)や御立藪の伐採禁止等が布告された。その内容は次のとおりである。 |
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上記のとおり、自分の持山や家の周囲の竹木といえども勝手に伐採してはならず、また、焼畑・炭焼きなども新規に行う場合は、許可を受けなければならないように布告されていた。最後の「やきうるし」は、漆の木を焼いてはいけないということで、当時は漆・桑・楮・茶を四木といって大切にされていた。 福井藩では、さらに延宝5年(1677)に「山方御条目」26ヵ条を定め、毎年村役から「山林四壁竹木改帳」を提出させ、福井藩669ヵ村を59番に分け、山奉行配下の役人が見回った。これは、福井藩独自の制度であった。(※宮崎村誌中巻 p.120〜122) |