本多富正は、元亀3年(1572)に三河国大平村で生まれた。父は徳川家康の家臣であった本多作左衛門の兄である。富正は15歳のとき、家康の二男である秀康が豊臣秀吉の養子となったとき、本多作左衛門の養子となって秀康の保傅役として仕えることとなった。 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦のとき秀康は、上杉景勝に対する抑えとして宇都宮に在陣していた。その後、秀康は越前国主となって68万石を領することとなり、富正もまたこれに従って越前に来て府中(現武生市)城主となって3万9千石を領して、秀康の家老としての責務を果たすこととなった。慶長12年(1607)に秀康が死亡したとき、富正もその厚恩をしのび殉死しようとしたが、将軍秀忠の意志を受けた本多上野介の諫言によって2代藩主忠直に仕えることとなった。 忠直が豊後国に配流された後、多くの家臣は越後高田へ去ったが、富正は幕命によって国老として3代藩主忠昌に仕えることとなった。正保2年(1645)8月、忠昌の逝去に伴い富正も隠居を願い出て許され、以後元覚斎と号して府中で暮らした。 本多富正は、性格は温順で達識であったが、弁舌優れず寡言で誠実忠勤を旨とした人であり、武功練達の士であるとともに、文治にも秀で顕著な功績があった。代表的な業績を列記すると、次のとおりである。
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