九頭竜川流域誌


2. エッセルとデ・レーケ

 明治政府は、殖産振興および国土保全などの施策を進めるためには、治山・治水・利水・交通網の整備が急務であることから、鉄道・水理・河海工学に秀でた外国人技師を多く招聘した。鉄道はイギリス、河川や港湾工事はオランダから招いた技師から技術指導を受けながら工事を進め、同時にわが国の技術者が技術の習得に努めた。
  河川工事はオランダから明治5年(1872)に長工師ファン・ドールンと二等工師リンドウを、翌6年には一等工師エッセル・三等工師チッセンおよび四等工師デ・レーケを招き、淀川や利根川の測量調査をはじめ諸河川の河川計画立案に着手した。これらの技師は、自国の低水工事方式を採用して計画を立て工事を進めた。
 福井県では、九頭竜川河口に位置する三国港が土砂によって埋塞し、船の航行にも支障を来し港としての機能を失うため、波止堤を三国の豪商たちが私費で新築したいという願いが出されていたため、明治9年(1876)に大阪土木局よりエッセルの派遣を受け、実地測量を実施した。
  エッセルは、明治9年5月20日に初めて福井市に到着し、翌日には三国に行き7月17日まで滞在して、九頭竜川河口の三国港の改修計画を立てた。その間に上流の数ヵ所を訪問し、14ヵ所で工事方法などについて指示を与えた。また、8月1日から12日まで三国に滞在して、導流堤の築造に使用する大きな岩石を探したり、水門のある用水路工事に携わったりした。同年9月には工事のために必要な捲揚機や装備品などを調達し、同月7日に大阪を発って三国に向かい10日に到着した。10月から11月にかけては導流堤に用いる岩石の集積場と積出場所の選定、気象観測装置やクレーンの設計を行った。12月2日からは、三国から約2里半(約10km)ほど上流に、水制を築く工事に着手した。12月12日には、三国での仕事を終えて、陸路で大阪を経由して東京へ向かった。
(※蘭人工師エッセル 日本回想録)
 三国港の導流堤工事は、エッセルが7月に帰国するまぎわの明治11年(1878)5月に着手されることとなり、工事を直接指導できなくなった。しかし、デ・レーケが後を引き継ぎ、しばしば三国を訪れて工事の指導を行った。明治13年(1880)3月には工手としてオランダ人のデ・ホース他3名を雇い入れ、粗朶沈床工事および岩石沈設工事を進め、12月に堤長286間(519.9m)、幅5間(9.1m)の導流堤を完成した。工費は112,400円で、そのうち私費が79,600円、官費が32,800円で、工夫延べ6万人にも及んだ。その後も冬季の波浪などにより築造した導流堤が破壊され、修補工事の必要が生じるなどしたが、後は官費で工事を進め、明治15年(1882)11月に完成した。なお、導流堤に使用された石材は、東尋坊から米ヶ脇までの安山岩をダイナマイトで爆破し、運搬船で運んで沈設された。
(※三国町百年史 p.680〜686)
 明治11年(1878)6月には、三国町の対岸にあたる新保地先の河岸3ヵ所に、沈床工事が施工された。
 また、明治12年(1879)から17年(1884)にわたり、エッセルの設計に基づいて九頭竜川筋の灯明寺および安沢地先、足羽川筋の福井市内などに、流勢をやわらげ河岸や堤脚の崩壊を防ぐための護岸や水制としての沈床工事が施工された。このような水刎のための水制工は、低水路の固定のためにも多用された。現在においても、水衝部において流勢を弱め、河岸を保護するために採用されている。
エッセル(右)とデ・レーケ(左)(淀川資料館蔵)
エッセル(右)とデ・レーケ(左)(淀川資料館蔵)


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