九頭竜川流域誌


3. 杉田定一

 杉田定一は、嘉永4年(1851)6月2日に坂井郡鶉村波寄の大庄屋杉田仙十郎の長男として生まれた。10歳のときに三国の滝谷寺に入って6年間、道雅上人を師として勉学に励んだ。慶応元年(1865)に道雅上人が入滅したので、やむを得ず寺を去って福井の松井耕雪の門に学び、さらに吉田東篁の教えを受けた。
 定一は後年、「道雅上人からは尊皇攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなって、後年板垣伯と一緒に、大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶとともに民権を重んじる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権を高唱したものであった。」と述懐している。
 やがて、明治元年(1868)に大阪へ出てオランダ人について理化学を学び、同4年(1871)に東京に上り三崎塾に学んだ。そして、同8年(1875)に同志と謀って、「采風新聞」を創刊し、藩閥専制の弊害を痛論し、自由民権を高唱したため投獄された。しかし、まもなく出獄して評論新聞の記者となって「評論新聞」に筆を執ったが、しばしば筆禍を招き投獄された。一方、同10年(1877)に愛国社を再興し、自由党組織を通じて板垣退助とも深い関係をもち、自由民権運動のリーダーの一人となった。また、福井における地租改正再調査運動のリーダーとなった。
  明治23年(1890)の第1回衆議院議員選挙に立憲自由党から立候補して当選し、以後第4回を除き第10回総選挙まで連続当選を果たした。その間、卓抜した識見でもって中央政界で重きをなし、明治31年(1898)には北海道長官となった。さらに、明治44年(1911)貴族院議員に勅選せられるまで、自由党の名士として、政友会の領袖として衆議院に重きをなし、同36年(1903)には副議長、39年(1906)には議長に当選した。
 一方、福井県内では、明治28年(1895)、29年(1896)と大洪水に見舞われ、九頭竜川改修の気運が高まったところへ、明治29年に河川法が公布された。そのような世情のなか杉田定一は、九頭竜川・日野川・足羽川の治水事業を河川法第8条を適用して国事業として施工できるよう、その必要性とともに関係者に対して力説し理解を求めた。その結果、明治31年(1898)3月14日に、内務省告示第22号をもって、他の日本の重要河川とともに、連続堤防を築いて越流を防ぎ、あわせて河川水運のことも考慮した、「九頭竜川改修基本方針」のもとに工事実施することが決定された。
 杉田定一の誠意と熱意は関係者の心を動かし、他県の河川にさきがけて実施される運びとなった。このとき杉田定一は、千数百石もあったといわれる私財を投げうって、河川改修の実現のために奔走した。
 改修工事は、明治33年(1900)に始まり、11ヵ年にも及ぶ年月を要して完了した。引続き明治43年(1910)からは日野川の改修に着手し、大正13年(1924)をもって、初めの計画どおりの大改修が完了した。
 これらの改修工事の実現にあたっては、多くの人々が苦労し力を尽くしたが、なかでも衆議院議長となった杉田定一の功績が大きかった。西藤島には、杉田定一の徳を偲んで、治水謝恩碑が建てられている。
 また、足羽神社境内には、いかに画期的な大工事であったかを物語る九頭竜川修治碑が建てられている。
  杉田定一は、郷里の丘の名前(鶉山)をとって鶉山と号し、三国鉄道の完成など国事につくし、さらにわが国の振興にも尽力し、昭和4年(1929)3月23日に不帰の客となった。

西藤島公民館横の祇王・祇女の碑と隣あわせに建つ治水謝恩碑 川西コミュニティセンター(鶉公民館)の庭から九頭竜川を見つめる杉田定一翁の銅像
西藤島公民館横の祇王・祇女の碑と隣りあわせに建つ治水謝恩碑 川西コミュニティセンター(鶉公民館)の庭から九頭竜川を見つめる杉田定一翁の銅像

治水謝恩碑の碑文は、次のとおりである。

杉田定一君治水謝恩之碑
人の美を済すは、恩に報い徳を謝するを以て最となす。南越吉田郡西藤島村の地たる 東中藤島、円山西村に隣り、北河合村に連り、西坂井郡大安寺、本郷両村及び足羽郡 東安居村に連り、南福井市に交はる。古来九頭竜、日野両川を導き、芝原用水を引き て、以て六百余町の耕田に灌げり。然りと雖ども地大川の間に介在し、一朝霖雨し河水氾濫せば即ち田圃埋没し、収穫忽ち烏有に歸せり。杉田定一君一世の重望を負ひ、而して平生義侠を貴ぶ。明治三十三年九頭竜川の改修を力説し、百方苦心経営遂に要路をして、工費予算三百八十余万円を計上せしめ、十年継続事業を以て、其の工を施さしめしが、途中三十七年に戦役に遇ひ、経費を緊縮し工事渋滞、而して四十四年順当に竣工せり、同年又た日野川及び支流天王川の改修に起工し、大正十一年を以て竣工せり。実に二百八万九千円を費せしし也。爾来茲幾星霜一村水害を免かれ、民庶其の堵に安んじ復た旧時の憂なし。是に於て有志胥ひ謀りて曰へり、人として恩に報ぜざるを可んやと、互いに義財を出し、一大石碑を建設し、且つ剰す所の金若干を君に贈り以て謝意を表せり。是れ治水謝恩碑の建ちし所以なり。頃者立唱者等来りて余に文を請へり。乃ち其の梗概を叙せしこと此の如し。
昭和三年秋季皇霊祭日
詩禅外史 山田秋甫
工学博士 仙石 亮

 なお、敷地の除草などの管理は、昭和20年代には西藤島青年団が、現在では西藤島地区庭友会が実施している。
 次に、当時の状況を設立趣意書から垣間見ると、次のとおりである。

(杉田定一翁謝恩会設立趣意書)「杉田鶉山翁」(昭和三年鶉山会発行)に拠る
 「昔は二日と雨が降れば水太鼓の音がこゝかしこに聞へ、村の区長から水人足のふれが廻る。見る内に泥海となって稲も見えず、畑も見えず、家の内に水が浸って床の上で、尚三四尺の水がつく、年に三度や四度は定まった様に、時としては十幾回の水がつき、二階の窓から筏を作って出たこともある。其れが一日や二日で引かず、稲は鯰の髭の様になる。さうなれば春は苗の植かへも二度、三度もした。秋の穂に水がつけば泥穂となるのは勿論、藁の長さが一尺五六寸、反三俵か四俵がのり米の様なものでも穫れゝば上作、春から食つては出て働いた仕事も、借金して入れた肥料も、一度の水で飯にも不足する様な事が度々であった云々。
 皆さん諺に旧きを温めて新しきを知ると云う事があります。今昔を省みて今の有様を考へますなれば、実に有難涙に暮れるではありませんか、私共は其の苦しき昔から、有難き現在になりました其の理由を知らねばなりません。
 それは我が福井県の日野川、足羽川、九頭竜川この三大河川の改修工事の完成の賜であります云々。然るに私共は完全なる河川改修工事の行はれた結果、過去最も苦しみ味はつた我が西藤島が喜びの中に、水田四百七十町七反、畑百三十一町七反、雑地十三町七反、計六百三十六町一反の土地を維持し、戸数五百七十戸、人口三千百余人を保護し、益々繁栄することは実に是れ上天皇陛下の御恩徳であることは勿論ながら、下に於て其の働きを致しましたる杉田定一翁のお蔭を思はねばなりません。 
  杉田定一翁は我が福井県の河川改修を他県に先んじ専心御盡力下され、其の結果完全なる改修工事が出来たのであります。翁は嘗て地租軽減運動を起して吾々農民の租税を軽減し、又河川改修工事運動等吾等農村の為に翁は千数百石の財産を捨てられたのであります。
 実に吾々今日の幸福は杉田定一翁よりの賜であります。凡そ恩を知る所が人たるの人であり、其の恩に酬ゆるのが又人であります。吾々はこの大恩に対し酬ゆる所がなければなりません。」

 これによっても杉田定一翁の力によって、幾百年にわたる悲惨な水害より解放された西藤島村民の喜びと謝恩の心の程が、いかに大きなものであったかを窺い知ることができる。
 このように、直接の洪水氾濫による惨害からは一応逃れることができたが、なお西藤島には他の地域からの氾濫水まで流れ込み被害を蒙る内水の問題がある。堤防の恩恵もこの地では、内水の排水問題の解決なくしては、その真価を充分にあらわすことができない。水との闘いは、なお完全に解決されたとはいえない。


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