九頭竜川流域誌


4. 坪田仁兵衛

 坪田仁兵衛は、天保9年(1838)に公領の大牧村(現春江町)において苗字御免という大庄屋の二男として生まれた。名を慎之丞といった。
  大牧村28字雀作から西の方へ堀越村54字猫田までを、昔から「川田」と呼んでいた。この「川田」を含め木部堤防に沿った東側一帯は、古代から水草や葭の生い茂った低湿地で、水田耕作を主体とした農耕地となっていた。しかし、洪水ともなれば、木部堤防の前面にあたるこれらの地域は、絶えず湛水し被害を受けていた。
  坪田仁兵衛が8歳になった弘化3年(1846)5月、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが軍艦2隻を率いて浦賀に来航した。そして嘉永6年(1853)6月、ペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、開港を求める国書を幕府に受け取らせた。
  この年15歳となった慎之丞は、ともすれば天下の大勢を論じたがる青年に成長していたが、父子で「川田」の水位を下げる工夫に余念がなかった。そして、「川田」の最も低い所から坂口用水堰の裏に向けて直線で水路を掘れば、水位を相当下げることができることに気づき、父子で現地調査を開始した。しかし、大牧地区から兵庫川までの距離は、約400mもあり、新川を開削するとなると膨大な潰れ地が必要となり、その用地を旧排水路と交換しなければならなくなる。
 こういった状況のなかで慎之丞は、毎年、正月に開かれる総寄合のたびに、精力的に新川の必要性を説いた。しかし、莫大な資金と労働力を要する大事業であるため、保守的で経済的余裕のない村人たちは否定的意見が強く、実施の目途が立たないまま歳月のみが流れた。
 「桜田門外の変」の起きた万延元年(1860)、慎之丞22歳のとき、父仁兵衛の熱意が実り地主寄合いで新川開削の合意を得られた。そこで慎之丞は、同じ公領であり12町歩の田畑が堤外にあって大牧の「川田」と同じ悩みを持つ清永村にも熱心に説得をし続け、翌文久元年(1861)に協力するという回答を得た。
  新川工事および地割工事の進め方が煮詰まり、幕府勘定奉行普請方への請願上申の準備を整えてた後、元治元年(1864)1月に坪田仁兵衛は不帰の客となったため、慎之丞が家督を相続し、仁兵衛を襲名した。悲願の実現のために父から子へ、その熱意が引き継がれたが、許可申請の手続きがなかなか進まなかった。
  それから4年の歳月が経過し、その間にも洪水による被害は絶えることがなかった。慶応元年(1865)4月、代官の添状を付した上申書を手に、単身江戸へ向かった。しかし、幕府に届けられたものの幕末の混乱期であり、時勢が許可どころではなくなっていた。
  坪田家の記録によると、新川開削および地割工事を上申してから5年を経た明治3年(1870)4月に、ようやく許可を得たとされている。これは、福井藩が申請者に自普請によることで、許可を与えたようである。 文久元年の総寄合で決定したとおり、人足賃350円(推定)のほか、橋の材料費などの資材も仁兵衛が提供とすることを確認して、6月にようやく着工することとなった。まず、測量杭が発注され、橋の材料となる丸太や板、土運搬用の田舟の製作と準備を整え、農繁期を過ぎた頃から1日20人平均が出役し、川の掘削が始まった。計画どおり進めば2ヵ年で終えるはずであったが、洪水や天候などの影響で、予定より1年遅い明治6年(1873)に川の掘削工事が完了し、地割工事は明治8年(1875)の春に完成した。
  仁兵衛は、明治元年(1868)から2年にかけて福井藩預領大庄屋を、同3年(1870)には郷長を勤め藩政に深く関わっていたことから、ゆくゆくは堅牢な堤防が築かれるものと考えていた。完成した2事業も、堤防が築かれることを前提としたものである。
  明治17年(1884)9月、福井県下で250地区、坂井郡内で43地区に各々連合戸長が任命され、坪田仁兵衛は後に大石村となる地区の連合戸長となった。そして、大牧小学校の一部を改築して連合戸長役場を開設し、九頭竜川築堤を最重点施策として行政的取り組みを開始した。
 仁兵衛たちは、新堤築造を県の補助事業として着工できるよう、水利土功会設立に関する広域連合会を開設すべく、関係の村々へ働きかけをはじめた。そして33ヵ村の総代の署名を得て、連合町村会開設に関する陳情書を石黒県令に提出した。
  翌18年(1885)には春から2回洪水があり、特に6月30日から7月2日にかけての洪水は、50年来最大といわれ県下一円にわたって被害を受けた。そのため、復旧に全力を注ぐこととなり、抜本的な治水工事については先送りされた。
  明治15年(1882)6月25日、第2回県会議員選挙が行われ、坪田仁兵衛が初めて当選した。仁兵衛は、同志とはかり九頭竜川改修を国費支弁事業とするよう、県会の決議をもって建議すべく行動してきたが、明治26年(1893)8月に県議を辞任し、翌年杉田定一に代わって衆議院議員に立候補し当選した。
  仁兵衛を国会に送り出したあと、春江築堤については五十嵐千代三郎を中心に23名が一致団結して実現に向けて努力を続けていた。しかし、明治29年(1896)7月10日、同志の大黒柱である坪田仁兵衛は、ついに帰らぬ人となった。
  その後、明治31年(1898)3月、高屋から正善までを2工区に分け、待望の築堤工事は着工された。


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