熊谷太三郎は、明治39年(1906)11月3日、熊谷三太郎の二男として福井市豊島上町に生まれた。福井中学校から一高を経て、京都大学経済学部に入学し昭和5年(1930)3月に卒業した。 卒業後は、家業の建設業に従事していたが、飛島組社長の後楯もあって昭和8年(1933)4月、福井市会議員選挙に当選し、まもなく市会議長に選ばれた。 下水道の計画を立てるために、同10年(1935)、母校の大藤工学博士に下水の調査・設計を委嘱し、3年間でこれを終え、いよいよ同15年(1940)にこれを予算化し工事開始の運びにこぎつけた。しかし、第二次大戦の激化に伴い、資材購入が困難となり断念することとなった。なお、昭和13年(1938)1月、株式会社熊谷組が創設され、父の三太郎が社長で、太三郎は副社長となった。 昭和20年(1945)10月、市議会の選出によって福井市名誉職市長となった。昭和22年(1947)に公選となり、改めて市長に当選した。市長となってからは、家業から実質的に離れ、福井市復興のリーダーとして活躍することとなる。その最初が市会議長時代に提唱した下水道事業であり、年来の宿願を果たすべく準備を進め、11月に厚生・内務両省の認可を受け、12月には戦災復興院の正式許可があって、特別都市計画事業の一環として戦後において全国では最初の下水道事業がスタートした。 都市復興が端緒についた昭和23年(1948)6月28日午後5時14分、福井市内など福井平野一円を激震が襲い、惨憺たる状況となった。そこへ追い打ちをかけるように、豪雨があり崩壊した九頭竜川・日野川・足羽川の堤防を越えて福井平野へ氾濫水が押し寄せ、被害が一気に拡大した。重なる惨状のなか熊谷市長が先頭となり、都市再興にあたり、さまざまな施策を手際よく進める一方、昭和24年(1949)8月には、下水道事業の主要施設である足羽ポンプ場が竣工した。翌25年には、足羽川の洪水時においても稼働して、橋北東部の広い区域を浸水から守る佐佳枝ポンプ場が完成した。 昭和28年(1953)9月25日、台風13号が襲来して各河川が増水した。佐佳枝ポンプ場もフル稼働を続けたが、日野川が足羽川合流地点直下右岸にて決壊し、福井市西部地区は一帯が湖水と化して惨憺たる状況となった。その惨状を眼前にした太三郎の胸の中には、氾濫のない河川とすべく九頭竜川再改修の炎が灯ることとなった。そして、明治時代の改修から歳月が経過しており、大雨のたびに各河川の水位が高くなってきていることに気づき、九頭竜川・日野川の決壊もそれが原因ではないかいうことから、昭和29年(1954)12月に「九頭竜川再改修促進期成同盟会」を結成し、その会長となった。翌30年(1955)10月には、竹山祐太郎建設大臣を明治橋付近の日野川に案内し、九頭竜川再改修の早期実現を陳情した。同31年1月には、九頭竜川再改修計画の予算が認められ、初年度事業費3千万円で決まったという知らせが、植木庚子郎衆議院議員からあった。 昭和31年(1956)5月20日、明治橋下流に米田正文建設技監を迎えて、九頭竜川再改修の着工式が挙行された。
一方、福井の市街地は河川の洪水位より低いため、各排水路の整備およびポンプ場の設置が必要であり、西藤島における落合ポンブ場設置などを進めることなど、周辺地区排水対策を取り上げ、下水道と地域排水の促進について奔走していた。 |