九頭竜川流域誌


6. 大武幸夫
大武幸夫元福井市長
大武幸夫元福井市長

 大武幸夫は、大正12年(1923)に福井市で代々続いてきた医師の家に生まれた。昭和17年(1942)9月、第四高等学校を卒業し、名古屋大学医学部に進み、医師としての知識と技術の修得、資性の向上に努め、昭和21年(1946)9月に同校を卒業した。家業を継ぐつもりで故郷へ帰ったところ、福井市や医師会から衛生行政を担当してほしいと頼まれ、翌22年12月に福井市役所に入り公務員としての道を歩むこととなった。
  その後、厚生部長を経て昭和46年(1971)に総務部長となり2年半を経過したとき、同 じ医師出身の島田福井市長が急死、熱望されて市長選に出馬するため昭和49年(1974)4月に福井市職員を退職して選挙にのぞみ、同年12月福井市長に当選就任した。以後、五期20年にわたって信任を得て精励された。
  大武幸夫は、市長に立候補したときの公約の一つに治水・利水対策をあげ、上・下水道と併せて最重要課題として取り組んできた。その施策推進のあらわれとして、昭和51年(1976)10月に福井市建設部に河川課を設置し、さらに翌年4月には河川対策参事官を置き、11月には底喰川水系改修促進期成同盟会を発足させ、初代会長に就任して福井市街地の内水問題に積極的な取り組みを始めるとともに、昭和54年(1979)1月には荒川水系整備促進期成同盟会を発足させて会長となった。このようにして、福井市の中小河川改修事業を軌道にのせる一方、同年8月に日野川対策推進協議会が発足して、熊谷太三郎参議院議員の会長のもとで副会長に就任した。その後、熊谷会長亡きあとは会長として、日野川五大引堤事業の着手に大きな力を添え、安竹・三郎丸・大安寺引堤のための用地取得など、事業推進の牽引的役割を果たした。
  大武幸夫は、福井市のみの治水にとどまらず、昭和56年(1981)11月には近畿2府6県で構成する近畿直轄河川治水期成同盟会連合会(近水連)の発足と同時に会長に就任し、広い視野に立って近畿全般の治水のあり方を研究、研鑽する一方、自己の経験を活かして才腕を発揮し、幅広い活躍を展開した。
  さらに、昭和57年(1982)には足羽川治水対策協議会および九頭竜川再改修促進期成同盟会の副会長を栗田幸雄福井県知事のもとで就任し、100年の大計をもって九頭竜川流域の治水対策に邁進した。それは、大河川の問題が解決への道を歩み出せば、自ずと中小河川の治水問題も解決への道を歩むという信念を固めることにもなった。そして、平成2年(1990)1月に九頭竜川鳴鹿大堰建設事業促進期成同盟会が発足されると、東郷重三会長のもとで副会長に就任し、鳴鹿大堰の建設促進に力をふるった。
  20年間の市政のなかで大武幸夫は、福井市30万人都市の実現に向け、上・下水道普及率を高めるとともに、魅力ある地域づくりにも力を注ぎ、恵まれた観光資源を活かした福井のPRとイメージアップになみなみならぬ熱意でもってあたってきた。しかし、精魂を傾けた治水対策や福井市の発展の志も病魔には勝てず、特に力を注いできた治水事業について遺言を残し、平成6年(1994)1月28日不帰の人となった。

参考資料
福井県史 昭和32年3月 発行:福井県 
武生市史資料編 人物・系譜・金石文 昭和41年12月 編集:武生市史編纂委員会
杉田定一・坪田仁兵衛関係文書にみる明治20年代の選挙と地方政治
坂野潤治・伊藤 隆著
私の春秋 熊谷太三郎自伝 昭和55年12月 著者:熊谷太三郎 発行:日刊福井
堤防−暴れ川、 九頭竜を制した男たち− 平成10年1月 著者:毛利権一
蘭人工師エッセル 日本回想録 平成2年7月 発行:三国町 
編集:三国町郷土資料館
明治以後本邦土木と外人 昭和17年 土木学会
お雇い外国人 15 建築・土木
昭和51年2月 著者:村松貞次郎 発行:鹿島出版会
100年の大計に向けて 大武幸夫氏追想録  平成6年12月
編集:近畿直轄河川治水期成同盟会連合会
三国町百年史 平成元年4月 発行:三国町
民権に生きた男・杉田鶉山  著者:仙石 進 福井新聞 1995.3.6〜95.5.30

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