九頭竜川流域誌


2.2 東大寺領荘園と用水

 越前は、東大寺大仏の建立事業と深い関係をもち、その経済的基盤として荘園の占定が進んでいった。東大寺領の占定が、特に越前や越中(現富山県)において活発に行われた理由は、有望な原野に恵まれ、水量が豊かで稲作に適していたことや、政治・経済の中心である大和(現奈良県)から比較的近く、物資の輸送も可能な位置であったことなどが挙げられる。東大寺領としては、桑原庄(現金津・丸岡町)、小榛庄(現春江町)、鯖田国富庄(現春江町・福井市)、田宮庄(現春江町)、子見庄(現坂井町)、溝江庄(現金津町)などがあり、天平神護2年(766)10月8日付きの溝江庄所使解(東南院文書)によれば、溝江庄などでは長さ615丈(1,863m)、広さ6尺(1.8m)、深さ3尺(0.9m)の用水路のあったことが記されている。 

図3.2.1 桑原荘の景観(※福井県立博物館)
図.3.2.1 桑原荘の景観(※福井県立博物館)

 東大寺領荘園が坂井郡や足羽郡に置かれたのは、水利用が容易であったことによるほか、荘園で収穫された物資の輸送に、福井平野を流れる九頭竜川などの舟運を利用できたことも大きな理由の一つであった。穀物などの物資は、九頭竜川を下り河口の三国湊を経由して海路敦賀津に送られ、そこから愛発関を越えて近江の琵琶湖北岸の塩津・海津に到り、さらに琵琶湖水運、宇治川・木津川の舟運を利用して平城の都に運ばれた。したがって、北国であっても越前は、都の経済を支える重要な地域の一つであった。
 当時、中央政府からみて越前の開発は、重要な施策であった。しかし、こうした進出を喜ばなかった荘園地の人びとも多く、天平宝字5年(761)の班田収授にあたっては、寺田の溝を塞ぎ、堰の水を通さないという騒動を起こし、寺家の荘園地占用に反対したことが記録されている。
 こうして中央の情勢に左右されながら、越前国での荘園形成は進み、道守荘では開田図にも明記される潅漑水路を1,721丈(約5.2km)掘り開くことが計画され、坂井郡桑原荘(現金津・丸岡町)でも用水確保のため、延べ1,530丈(約4.6km)もの溝が掘られようとした。こうした農業用水路は、公田・荘園を問わず、きわめて重要な経営問題であったが、道守荘の場合はそれを足羽川に求めていたことが文書でも明確になっている。



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