九頭竜川流域誌


3. 中世
3.1 北国荘園と用水

   河口荘(現金津・芦原・坂井町)と坪江荘(現金津・丸岡町)は、ともに奈良興福寺(春日社)領であって、北国荘園とも呼ばれていた。この荘園は、九頭竜川流域の肥沃な沖積平野を中心とする大荘園で、興福寺および春日社の最も重要な財源であった。
 北国荘園のうち河口荘は、康和2年(1100)7月、白河上皇が一切経料所として春日社へ寄進したものである。また、九頭竜川下流域の開拓の進展につれて坪江荘の経済価値が高まり、正応元年(1288)、後深草上皇から新三十講料所として同郷を寄進された。こうして、興福寺および春日社は、越前において河口荘600町余(595ha)、坪江荘100町余(99ha)の合計700町余(694ha)を占有し、北国きっての大荘園を獲得することとなった。
 河口荘には、本庄郷、新郷、溝江郷、大口郷、王見郷、新庄郷、関郷、兵庫郷、荒居郷および細呂宜郷の十郷があり、各郷に春日神社が鎮座し、本荘村(現芦原町)の中番、下番入会地に総鎮守が鎮座していた。これら十郷をまとめて河口荘と呼ばれるのは、「和名抄」にみられる坂井郡川口郷から名付けられたものであろうとされているが、大部分が九頭竜川本川(崩川)と竹田川(鳴鹿川)の河口付近に位置していたからである。
 一方、坪江荘も「和名抄」の坪江郷に由来している。荘園域は河口荘を中断して海岸に沿う梶、崎、安島の三ヵ浦をはじめ三国湊、阿古江を含んでいた。
 こうして、福井平野に大きく占有地を広げた河口・坪江両荘は、以後16世紀末に至るまで、時代の推移や政権の変転に対応しながらも経営されていった。
 5世紀に及ぶ荘園経営は、各地に神社・郷名・荘名を今に伝えている。また、同荘最大の用水路となった十郷用水は、今も福井平野をうるおし、大いなる恵みをもたらしている。

(※福井県の歴史 p.68〜72)


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