九頭竜川流域誌


3.2 十郷用水

 十郷用水は、「越前国名勝志」によれば、保元年中(1156〜59)に越前惣追捕使藤原国貞が奈良の春日大明神を十郷に勧進し、神料として600余町(595余ha)を寄進した。そして河口荘が成立したが水田でないため、水を求めて九頭竜川を遡ったところ、山から幣をくわえた鹿が現われて川を下って三声鳴き、次には川を離れて西に向かい、本庄郷の春日社のところで姿が見えなくなったので、鹿の歩いた道すじを掘って水を通したという伝説がある。このように、春日大社の神鹿の導きによって、鳴鹿地区で九頭竜川の水を堰止めて、十郷へ導水するという大工事を行うことで用水が確保できたと伝えられている。
 用水を取水するための鳴鹿大堰所は、九頭竜川の川幅百数十間を人力のみに頼った技術、工法で構築されていたことから、洪水のたびに河状が変わると、その都度堰も押し流された。その上、用水が不用となる秋冬の間は、左岸近くを24間(約44m)も切り落とす習慣があったため、一部撤去と修復を繰り返さねばならないという困難が続いた。
 永正12年(1515)に朝倉孝景は九頭竜川において、鳴鹿大堰所の用水取入口の江掘りをしたときに検使を派遣して監督させ、古代から河口庄の荘官が掌握してきた用水管理権を実質的に武家の手に収めた。天文6年(1537)6月28日付きの朝倉三奉行十郷用水掟書(大連家文書)には、用水が少ないときの鳴鹿大堰所普請に関する規定や井料米に関する規定など詳細なことが定められている。(※福井県の地名 p130〜131)
 すなわち、十郷では農民が鳴鹿大堰所の取入口の江掘を十分に実施するために、用水費を出すことが定められていた。また、用水路や樋の幅の寸法を規定し、用水の分量を決定する一応の目安としていた。たとえば、十郷用水より分水する若宮筒木と称する樋は、幅6尺1寸(1.85m)で、それに3尺2寸1分(97cm)の水深をもって通水することや、東長田の樋は幅1尺8寸(55cm)、内法1尺1寸3分(34cm)で、水深5寸3分(16cm)で配水されるということになっていた。
 さらに、一層の正確を期すためには、幅のほかに通水の深さを決定する必要があり、十郷用水の若宮筒木の水深を3尺2寸1分(97cm)と決めたのも、その意味からであった。同じ十郷用水の東長田樋においても5寸3分(16cm)という水深に関する規定があり、そしてその基準となったのは、先年から打たれていた杭(おそらく筒木)であった。このような筒木による水深の決定は、決して珍しくなかった。

(※鳴鹿村誌 p.44〜46)
  一向一揆の平定後に、越前8郡を領治した柴田勝家は、「戦乱によって逃散した百姓の還住」、「在々百姓等其所の後を遁れんとして、他郷へ相越す儀停止」と布令し、百姓が課役を免れようとして、他郷へ逃散することを禁じた。これは農民の転在転職を禁止して集落に定着させたもので、農民の逃散を禁止して農耕に専念させ、「年貢米皆済」を期した。このためにも用水管理に細心の注意をなし、農民が農事に安んじて従事し、生産量を増加するような見込みを持たせる必要があった。こうした点に農政の基調をおいた勝家は、「国中へ申出条々」に続いて、天正6年(1578)3月に「十郷用水条々」を布令し、「郷中に於て究めの書を披見し、工事のこと旧慣に反するなからしめ、若し非分の族あらば郷中にて江口を塞ぎ分水を停止せしめ、江料堤米などに関しても違乱なきを期せしめ、専ら耕作に励むべきものなり」と厳達した。
 慶長2年(1597)堀秀治は、十郷用水の用水支配を各村に対して「度々申し遣し候十郷並に江水のこと、炎天の儀に候間精を入れ尤もに候。又鳴鹿口より三国の際まで前々の如くたるべく候。若し出入候はば奉行方まで申越さるべく候」という制状を出した。同時に本庄郷下番村百姓中に対して、「十郷用水鳴鹿横落普請の儀、先規の如く大達に申付くべく候」と布令し、江守役の職責を確認している。(※鳴鹿村誌 p.44〜47)


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