十郷用水は、「越前国名勝志」によれば、保元年中(1156〜59)に越前惣追捕使藤原国貞が奈良の春日大明神を十郷に勧進し、神料として600余町(595余ha)を寄進した。そして河口荘が成立したが水田でないため、水を求めて九頭竜川を遡ったところ、山から幣をくわえた鹿が現われて川を下って三声鳴き、次には川を離れて西に向かい、本庄郷の春日社のところで姿が見えなくなったので、鹿の歩いた道すじを掘って水を通したという伝説がある。このように、春日大社の神鹿の導きによって、鳴鹿地区で九頭竜川の水を堰止めて、十郷へ導水するという大工事を行うことで用水が確保できたと伝えられている。 |
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(※鳴鹿村誌 p.44〜46) | ||
一向一揆の平定後に、越前8郡を領治した柴田勝家は、「戦乱によって逃散した百姓の還住」、「在々百姓等其所の後を遁れんとして、他郷へ相越す儀停止」と布令し、百姓が課役を免れようとして、他郷へ逃散することを禁じた。これは農民の転在転職を禁止して集落に定着させたもので、農民の逃散を禁止して農耕に専念させ、「年貢米皆済」を期した。このためにも用水管理に細心の注意をなし、農民が農事に安んじて従事し、生産量を増加するような見込みを持たせる必要があった。こうした点に農政の基調をおいた勝家は、「国中へ申出条々」に続いて、天正6年(1578)3月に「十郷用水条々」を布令し、「郷中に於て究めの書を披見し、工事のこと旧慣に反するなからしめ、若し非分の族あらば郷中にて江口を塞ぎ分水を停止せしめ、江料堤米などに関しても違乱なきを期せしめ、専ら耕作に励むべきものなり」と厳達した。 慶長2年(1597)堀秀治は、十郷用水の用水支配を各村に対して「度々申し遣し候十郷並に江水のこと、炎天の儀に候間精を入れ尤もに候。又鳴鹿口より三国の際まで前々の如くたるべく候。若し出入候はば奉行方まで申越さるべく候」という制状を出した。同時に本庄郷下番村百姓中に対して、「十郷用水鳴鹿横落普請の儀、先規の如く大達に申付くべく候」と布令し、江守役の職責を確認している。(※鳴鹿村誌 p.44〜47) |