九頭竜川流域誌


4. 近世
4.1 江戸時代の十郷用水

  慶長6年(1601)福井藩主結城秀康の下で今村盛次は丸岡城主となったが、大連宛に「鳴鹿井堰前々仕来り候江村へ油断なく申付くべく候。若し無沙汰の江村候はば書付け上ぐべく候」と厳達し、本多・今村の連署書状をもって、「金津田地日損候の由申来り候。毎年の如く十郷の庄屋へ申渡し留水候て、金津へ一日一夜下し候様申すべきものなり」と布令している。下新庄の御定水門から分水して金津にいたる東江用水では、各村で日を定めて順次引き水し、公正な配水をする慣例はすでに慶長年間に実施されていた。
 まだ戦乱の絶えない時勢であったが、藩政の根本である農政は、営々と維持されていた。藩政はもとより農村の繁栄のために、用水管理を厳守し、古くからの慣習を重んじて、用水制度を確立するための細心の注意が払われていた。河口庄開発以来江守役を世襲してきた大連・土肥・伊井の各家をそのまま起用して用水の管理にあたらせた。
 その後、越前における藩領は細分されていったが、用水制度については慣習に従って一貫した管理が行われた。古代から開発されてきた福井平野は、確立された用水制度のもとで一層の開発が進められた。九頭竜川から取水した十郷用水を幹線として、高椋・磯部用水を分水し、その末端は、毛細管状に広がって広大な田地を灌漑した。
 九頭竜川左岸では、福井の御上水として芝原用水が整備され、九頭竜川南方を西流して日野川にまで達していた。
 九頭竜川がもたらす豊富な水量は、沃野な福井平野を潤し多くの新田を開発する源となった。新田開発に伴って用水路整備も進められていったが、水の利用効率が悪く渇水のときには各地において用水紛争が生じた。この用水紛争に関する史料は数多く残されているが、用水の機構や運営についての史料は極めて少い。用水に対して最高の権力を持つ管理者は、中世においては地頭、近世は藩の用水奉行、近代には郡長であったが、運営は各用水に関係する村々において慣例に従い自主的に運営されていた。



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